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Channel: 黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)
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巌窟ホテルと岩室観音

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前回の記事でアップした吉見百穴の見学は、
所用の後の訪問だったので、
じきに日も暮れて来たので帰途につくと、
道沿いに金網のフェンスで封鎖されたエリアがあり、
その奥に百穴と同様、岩肌を穿ったあとが見えました。
そうそう、吉見百穴のすぐ近くには『巌窟ホテル』がありましたね。
すっかり忘れていました。

巌窟ホテル

明治から大正にかけての21年間、
一人の男がノミ一本で彫り上げた伝説の穴蔵跡。
「巌窟を彫ってる」が転じて、
『巌窟ホテル』と呼ばれる様になったとか。





巌窟ホテル

かつては見学もでき、多くの観光客で賑わったそうですが、
今はもう入ることはできません。
部屋は勿論、家具から花瓶まで、
完全に岩を彫り貫いて作られた内部は、
一度見てみたいものです。





巌窟ホテル

目の前には『巌窟売店』
御休所の下には小さく「巌窟ホテル発掘の家」とあります。
時間が遅かったのでやってなかったのが残念。
温泉入口の看板と土産物店兼御休所。
ほっこり観光地の見本の様な光景は心和みます。





岩室観音堂

巌窟ホテルもいいのですが、
隣接して建つ古色蒼然とした建物に惹かれました。
岩を穿って観音様を祀ったことから
『岩室観音堂』と言うのだそうです。
創建は800年の初頭とも。
秀吉の松山城攻略の時に焼失し、
現在のものは江戸中期に建てられたものだとか。





岩室観音堂

敷地に入ると確かにくり抜かれた岩の中に観音様が沢山。
この他にも、お堂の下部がやはり岩をくり抜いた状態で、
沢山の観音様が並んでいます。
堂内に安置された観音様は全部で八十八体。
どれもが四国八十八ヶ所の本尊に似せて造られているそうです。
四国へ行かずともお遍路が出来ちゃうノリは、
富士塚にも共通しますね。





岩室観音堂

御堂の一階にはやたらと急な階段があり、
二階へ昇れます。





岩室観音堂

御堂の二階からは奥の山の景色が見えます。
と言ってもご覧のように鬱蒼と繁る森。
石畳があるので一見平坦のように見えますが、
奥に行くに従ってかなりの急斜面です。
石畳の先を登ると、
石田三成に陥落された松山城跡だそうですが、
もう暗いので断念、

画像中央に写る岩肌の見える大きな石の左側は、
岩肌を昇る急斜面になっていて、
その奥に「胎内くぐり」があるといいます。
もうあたりはかなり暗いですが、
とりあえず行って見ることに。





岩室観音堂

補助用に設置された鎖を頼りにつるつる滑る岩肌を昇ると、
そこにはかがんでやっと通れる位の狭い胎内くぐりが。
「諸難を除き、安産その他の願いごとが叶うと言われている」
だそうです。





岩室観音堂

胎内くぐりは国内に数多ありますが、
基本的には女性の胎内に模して、
そこを通ることによって生まれ変わり、
魂の浄化を行なうための装置です。

死後も次の世界へ行ける様にとの配慮から、
横穴式に造られた吉見百穴を見て、
エジプトの死後の世界観を思い出しましたが、
胎内くぐりもまたエジプトを連想させます。

世界最大のピラミッドは未だにその目的が分かっていません。
様々な説がありますが、その中の1つに興味深い説があります。

大ピラミッドの中には大回廊と呼ばれる急傾斜の広い通路があり、
その手前に外界と繋がる極めて細い通路があります。
これらを女性の胎内に模し、
王子が玄室である日数を過ごし、
やがて大回廊から細い通路を通って外へ出た時に、
王、すなわちラーとなって復活する
という説です。
すなわち、ピラミッド=胎内くぐり説ですね。

吉見百穴と岩室観音、
埼玉県のほっこり観光地で意外にも、
古代エジプトに想いを馳せてしまいました。

吉見百穴

恵比寿の道しるべ

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恵比寿の街を歩いていたら、
偶然「道しるべ」に出くわしました。



都内に残る道しるべとしては、
この他に三軒茶屋や参宮橋のものを見たことがありますが、
いずれも野ざらし。
このように祠状になっているのは初めてです。

説明板によると江戸中期に建てられたものだそうで、
勿論まわりを囲む風よけは、当時からのものではないけど、
その風化具合や道しるべの石との同化具合から、
あたかも江戸からこの姿だったような錯覚を覚えます。







中央には「南無阿弥陀仏」、
石の右面には「ゆうてんじ道」、
左面には「不動尊道」と彫られています。
解説板によると、
台座には「道中講」と彫られているそうです。
「富士講」や「庚申講」と同様、
道に関しても「講」があったんですね。







道しるべの向かって左側に、
半レリーフの、これまた年季の入った彫像があります。
その姿形から、よく庚申塚でみかける猿の形をしていますが、
説明板はなにも触れていないのでわかりません。
もし庚申塚だとすれば道中と庚申の、
講のコラボということになるんでしょうか。

この時は時間がなく、サラッと撮影しただけでしたが
次回訪れたら、この彫り物をもう少し調べてみようと想います。
※郷土史とかみればあっさり出てるかな。。。






neonさん作『志免炭鉱竪坑櫓』

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以前の記事で、
N的画譚』のneonさんこと大倉ひとみさんの個展で、
拙ブログにアップした志免炭鉱竪坑櫓を題材に、
作品にして頂いたものが展示されるとお伝えしましたが、
実はその時に、作品を頂いていました。
もう昨年のことですが、ありがとうございました。



大倉さんは、下町のトタンで出来た工場街などを、
独特な線と色で表現するのが得意な方で、
志免の竪坑櫓のような巨大コンクリート建築を題材にされるのは、
あまり拝見したことがありません。

志免の竪坑櫓は、
一般的には壮大で壮麗な巨大珍建造物として捉えられますが、
大倉さんの作品になった竪坑櫓は、そういった印象ではなく、
どこかノスタルジックで何時か見た夢の中の光景、
のような印象で、
大倉さんらしいテイストでしっかり仕上がっていて感動です。

大倉さんは定期的に個展を開催されています。
ご興味のある方は是非脚を運ばれることをお勧めします。
個展情報などは上記『N的画譚』のリンク先でご覧になれます。

弐千拾参年 大月隠り

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まもなく2013年も終わります。

今年はなんと言っても、
軍艦島が世界遺産への推薦に決定したことは忘れられません。
もう10年以上前、初めて軍艦島をDVD作品にし、
お台場のデザインフェスタで販売した時、
殆どの人がその存在を知らなかったのを思い出します。
また、当時はよく
「こんなゴミのような島が世界遺産になるわけがない」
という言葉も耳にしました。

私は世界遺産になろうがなるまいがおかまい無しに、
ただ、軍艦島から受けた大きな感銘を伝えてきましたが、
こうして世界遺産の候補に実際になったと聞くと、
やはり驚きます。



3月には、
去年から撮影を積み重ねていたDVD作品
廃道クエスト』をリリースさせて頂きました。
初めての廃道に、過酷な自然環境との戦いを強いられましたが、
軍艦島とは違ったテイストの作品への挑戦でもありました。


2008年に出版した『軍艦島全景』の
電子書籍版も出ました。
住宅棟に特化した『vol.01 住居編』、
地獄段などの名所に中ノ島とビュースポットの『vol.02 名所編』、
書籍では少なかった炭鉱施設だけの『vol.03 鉱業所編
の3作分割の形でのリリースです。


5月には、東京カルチャーカルチャーで、
廃墟バトルロワイアル』を主催させて頂きました。
廃墟が絵画や写真、パフォーマンスや映像等で、
いかに表現されて来たかを紐解くイベントで、
探索の話を一切なしで行なったのですが、
やっぱり物件が出てこない廃墟イベントは不評でした。
個人的にはとても良かったんですが。。。orz


8月には軍艦島をまとめた著書で2作目になる
軍艦島入門』を出版させて頂きました。
2008年の『軍艦島全景』が、
各施設や建物をアーカイブ的にまとめたものだったので、
今回は読み物的な作りのものに仕上げてみました。

また同じく8月には、大阪で、
『軍艦島を世界遺産にする会』の坂本理事長と共に、
産業遺産の見学ツアーを果敢に実現するJヘリテージさん主催の、
軍艦島のイベント2本に参加させて頂きました。


そして9月。10年以上にわたり関わって来た軍艦島が、
世界遺産への推薦に決定しました。



来年は『廃道クエスト』の続編となる、
廃道ビヨンド』を3月にリリースさせて頂く予定です。

九州最後の炭鉱として知られる池島炭鉱も、
ほぼ軍艦島と同じ2003年頃から撮影して来たので、
できれば作品化したいと想います。

その他幾つかの書籍を準備中ですので、
こちらも決まりましたらお知らせさせて頂きます。



今年は殆ど情報記事しか揚げることが出来ませんでしたが、
ご訪問頂いた方々には、感謝致します。

来年はまた記事らしい記事をアップして行ければと想います。
来年もよろしくお願いいたします。

2014年が皆様にとって幸せな1年でありますように!

弐千拾四年 謹賀新年

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2014年 あけましておめでとうございます!
本年もよろしくお願いいたします!

三池炭鉱 #01:はじめに

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軍艦島との関わりから国内の様々な炭鉱を見学し、
拙ブログでもその多くを取り上げて来ましたが、
いつか行きたいと想いながらなかなか実現出来なかった炭鉱があります。

それが三池炭鉱です。

三池炭鉱は福岡県と熊本県の県境付近に広がる、
大規模な三池炭田にあった炭鉱です。
国内の大規模炭田が、一般的に多くの企業によって採掘されたのに対し、
三池炭田は大規模な炭田ながら、
殆ど三井によって独占的に採掘された炭田です。

明治時代からの壮大な開発と、
戦後最大の爆発事故&労働争議という、
炭鉱の歴史を語る上で絶対に外せない炭鉱ですが、
あまりに歴史も深く、規模も大きいので、
ずっと手をつけられずにいました。

しかし一昨年の夏、
三池炭鉱で最後まで稼働していた有明坑の竪坑櫓の解体決定を機に、
最後の見学会が開催されるというので、
神のお告げのようなものを感じ、赴くことにしました。
そして見学会の時に、
三池炭鉱を保存・活用する市民団体である、
大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方々とお会いし、
三池炭鉱のDVD制作のお話を頂きました。

DVDは昨年の春に完成し、
ファンクラブの活動に活用頂いているようですが、
そのおかげで、表面的ですが、
三池炭鉱を知ることができました。

これからシリーズでアップする三池炭鉱は、
一昨年の夏に訪れた時と、
その暮れに、DVD制作のためにご案内頂いた時のものを織り交ぜ、
DVDで制作した内容に沿った形で進めて行きたいと想います。



九州新幹線

通常DVDのロケはオープロジェクトで行なうので、
その移動手段は飛行機か車ですが、
有明坑の見学会は私一人だったので、電車での移動でした。
おかげで初めて九州新幹線に乗ることができました。
博多駅に停車中の九州新幹線<つばめ>号





九州新幹線

つばめ号のマーク。





九州新幹線

九州新幹線

かしわめしの名前くらいは知っていたので、
とりあえず駅弁をゲットして新幹線へ。
味は悪くないですが、
個人的にポソポソした食事が苦手なので残念。





九州新幹線

かしわめしはさておき、
九州新幹線の室内には驚かされました!
車輛連結部分の壁面がなんと金箔張りです!!!
壁に掲げられたレリーフもまっ金々!!!





九州新幹線

ブラインドはすだれです!!!
先日走り出した『ななつ星in九州』もそうですが、
JR九州は豪華な車輛が多いですね!





大牟田駅

新幹線を筑後船小屋で乗り換え、
目的地の大牟田に到着です。





大牟田駅

駅前には「めざせ世界遺産!!」の看板が。
これは一昨年の夏なので、また「めざせ」ですが、
既に拙ブログでもお伝えした様に、
三池炭鉱の関連施設の多くは、
日本の明治産業革命遺産の構成物件として、
昨年の九月、世界遺産への推薦書が提出されました。





大牟田市役所

見学会場へ行くバスの時間まで少し余裕があったので、
駅前をちょっと散歩してみました。
駅前からほんの近い所に、風格のある建物があります。
大牟田市役所だそうですが、
屋上の右端はトーチカがあるではないですか!
かつては軍事都市だった時代もあるのだと想いました。





三池炭鉱

駅前の観光案内所には、
炭塊をはじめ炭鉱関係の展示がされていました。
『三池港』と題名が付けられた操業時の三池の様子。
大規模な工場街だったことが伺えます。

三池炭鉱 #02:沿革〜1〜

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
まずは三池の歴史について、さらっと触れたいと想います。

三池炭鉱

三池炭鉱とは、
福岡県南端の大牟田市と、
熊本県北端の荒尾市の隣接する一帯に広がっていた、
国内有数の三池炭田を採掘した炭鉱です。





三池炭鉱
『三井石炭発見図』加藤丹丘画 (昭和10年頃) 石炭産業科学館蔵

国内での石炭採掘の歴史は、
奈良時代に既に始まっていたとも言われますが、
記録として残っている最も有名なものが、
三池炭鉱の石炭発見伝です。

大牟田の東寄りにある稲荷山(とおかやま)で、
農夫夫妻がとろとろと燃える石を、
たまたま見つけたのが始まりだそうです。





三池炭鉱
『石炭山由来』石炭産業科学館蔵

その伝承を今に伝える江戸時代に描かれた記録。
安政6年(1859)年、
三池藩主に家臣に調査報告書として提出したもの。
石炭問屋の橋本屋が大切に保管していたので、
今日、日の目を見ることになったそうです。





三池炭鉱
『石炭山由来』石炭産業科学館蔵

赤字の部分には
「石炭山由来…文明元年丑正月十五日…
農夫伝治左衛門と申す夫婦之者あり…
火を焚きつつふと見るに かの岩角
とろとろともへけれハ」
とあります。





三池炭鉱

もともと肥沃な土地で、
早くから農業が発展していた三池では、
足踏水車などの農耕技術を坑内排水に利用する等して、
炭鉱の開発も進んで行ったようです。





三池炭鉱

江戸時代に入ると、三池藩の藩営炭鉱になります。
閉山の頃の三池炭鉱は、
有明海沿岸の一帯に広がっていましたが、
江戸時代はそれよりも遥かに内陸で、
上記の石炭が発見された稲荷山、
および高取山付近が採掘エリアでした。
地図をご覧になってもおわかりの様に、
江戸時代に既に多くの坑道があったことが分かります。





三池炭鉱

江戸時代の採掘は、勿論人力でした。
画像は入坑の時の様子。
左が先山(さきやま)と呼ばれ、
主に石炭を鶴嘴で採掘する作業をする人。
右は後山(あとやま)と呼ばれ、
主に石炭をかき集めて運び出す作業をします。
夫婦で作業にあたることが多かったといいます。
後山は左手にお弁当を持ってますね。
食事も真っ暗な坑内で食べたのでしょう。





三池炭鉱

しかし、江戸時代の採掘は、
思い思いの方向に勝手に掘り進む<狸掘り>でした。
掘り進んだ坑道の形が狸の巣穴に似ていることから、
こうよばれる様になりました。
画像は宮城県の細倉鉱山にのこる狸掘りの穴。
高さは1mにも満たないもので、
当時の過酷な採掘状況が伺えます。

三池炭鉱 #03:沿革〜後編

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
さらっと触れる三池の歴史の後編です。

三池炭鉱

明治6年(1873)、三池藩の炭山はすべて官営になり、
政府は洋式技術の投入で能率的生産を計画します。
最初に洋式技術を投入した大浦坑では、
斜坑を造り、蒸気動力による炭車巻上機を設置しました。
画像は『稻荷村大浦炭坑山之図 (筑後地誌略)』
に掲載されている当時の大浦坑の様子。(クリックで拡大)
左に斜坑口、右に蒸気機関による巻上機がみえます。
また、運搬には馬が使われている様子も描かれています。





三池炭鉱

明治22年(1889)、三池炭鉱は三井に払い下げられ、
後に百年以上にわたる三井三池炭鉱時代が幕をあけます。
画像は払い下げられた当時の三井炭鉱社本部 (明治22年)





三池炭鉱
團琢磨 石炭産業科学館

三井に払い下げられた三池炭鉱の最高責任者に就いたのが、
当時まだ30歳だった團琢磨です。
團琢磨は優れた炭鉱技術者であると同時に、
先見の明と不屈の精神を持ち合わせた経営人でもありました。





三池炭鉱
勝立坑のデイビーポンプ

團琢磨は世界一大きなデイビーポンプを導入し、
三池炭鉱の最大の弱点だった、
大量の坑内湧水の問題を解決するなど、
多くの難題を解決したと言われています。





三池炭鉱

その後、宮原坑や万田坑など、
大規模な坑道を次々と開削。
團琢磨は可能な限り機械化を導入して、
労働者の負担軽減も考慮した人でした。
画像は創業時の万田坑第一竪坑。




三池炭鉱

明治40年代になると、
永年の案件だった三池港の改築も手がけます。
大型の船が停泊出来なかった三池港から積み出される石炭は、
幾度も積み替えを行なって出荷されていましたが、
この三池港の大工事で、大型船舶の停泊が可能になり、
三池港から直接出荷先へ運搬出来る様になります。
画像は完成当時の、港の水位を調整する閘門。
こうして盤石の三井三池体制が作られて行きました。







三池炭鉱

戦後の昭和34年(1959)、
エネルギー政策の転換と価格競争のあおりをうけ、
三井が雇用者の大幅なリストラを行なったことに端を発し、
労働組合が猛抗議を開始します。
財界が三井を支援する一方、
日本労働総評議会が労組を支援したことで、
この講義は、総資本対総労働の戦いとも言われました。
歴史にその名を大きく残す三池闘争です。





三池炭鉱

労働争議が一段落した昭和38年(1963)、
当時主力坑だった三川坑で大規模な炭塵爆発が起きました。
死者458名、一酸化炭素中毒者839名を出す、
戦後最大の産業事故でした。
画像は三川坑炭塵爆発の慰霊碑。





三池炭鉱

存命した方々も、多くが一酸化炭素中毒の被害を受け、
いまでも障害が癒えないでいるといいます。



こうしてさらっと三池の沿革を見て来ましたが、
激動の20世紀を走り抜けた三池炭鉱は、
エネルギー政策の転換と輸入炭とのコスと競争により、
平成9年(1997)、その長い歴史に幕を下ろしました。

三池炭鉱 #04:宮浦坑

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
前回まで三池炭鉱の歴史をさらっと触れて来ましたが、
今回からは具体的に施設を見えて行きたいと想います。
まずは文化財に指定されるなどして保存されている施設、
次に、惜しくも壊されてしまった施設、
最後に、史跡などに指定されてはいないけれど、
保存する価値のある施設、
の順番でアップして行ければと想います。

最初の保存されている施設は宮浦坑です。

三池炭鉱

大牟田市の中心地からも見ることのできる、
かなり高い煉瓦の煙突が宮浦坑の煙突です。
竣工明治21年(1888)、高さ31.2mで、
平成10年(1998)に国の登録文化財となっています。





三池炭鉱

盆踊りの定番『炭坑節』に出てくる高い煙突が、
この煙突のこと、という話をたまに聞きます。
それは歌詞が

 月が出た出た 月が出た
 三池炭鉱の上に 月が出た
 あんまり煙突が高いんで〜

ということですが、そもそも私は、
「三池炭鉱の上に」の炭坑節を聴いたことがありません。
東京で幼少の頃聴いた炭坑節の2行目は

 ウチのお山に 月が出た

でした。
なので三池炭鉱の歌かどうかすら全く知らなかったわけですが、
ともあれ現在では、炭坑節の原型は三池ではなく、
筑豊にあった三井田川炭鉱の煙突がモデル
というのが定説になっている様です。

田川市のサイトにも炭坑節の経緯や、
「三池炭鉱の上に出た」ではなく、
「三井炭鉱の上に出た」が正しい歌詞として記されています。





三池炭鉱

宮浦坑は前回の記事でも触れた、
明治前半の官営時代の最後の坑道で、
第一竪坑が明治21年(1888)に創業を開始しますが、
すぐに三井の経営になるので、
それ以降三井の主力坑道として活躍します。
画像は三井に移管した頃の宮浦坑。
既に現存する煙突が建っています。
また竪坑櫓は、画像を見る限り木造のように見えます。





三池炭鉱

大正8年(1919)に第二竪坑が創業を開始。
画像は大正末期の頃の宮浦坑の様子なので、
手前に見えるのが第二竪坑でしょうか。
奥には第一竪坑の櫓も見えます。
櫓の左に写る白い建物は捲座だと想いますが、
第一竪坑の捲座がその色から判断して煉瓦の様子なのに比べ、
この捲座は白い壁面なので、おそらくRCなのではないでしょうか。





三池炭鉱

大正末期の選炭場の様子。
選炭とは、採掘された鉱石の中から、
石炭とそれ以外の石を分別する作業のこと。
画像は手選(しゅせん)と呼ばれる、
いわゆる手作業で選別をしている場所。
この作業は殆どの炭鉱で行なわれていたもので、
主に女性が従事していました。





三池炭鉱

大戦前夜の昭和14年(1939)頃の坑内。
電動コールドリルで採掘している様子。

2つの竪坑は、戦後すぐに閉坑しますが、
大正末期に開削した大斜坑はその後も稼働し、
昭和43年(1968)年の閉坑までの81年間、
約4000万tもの石炭を産出し、
三池炭鉱の主力坑道として活躍した坑道でした。





三池炭鉱

現在、宮浦坑の敷地の一部は、
前述の煙突とともに記念公園として整備され、
最後まで稼働した大斜坑の坑口も当時の姿で残っています。





三池炭鉱

また煙突に隣接して、第一竪坑の坑口跡も、
形ばかりですが保存されています。






三池炭鉱

その他幾つかの関連施設が、
整備された形で保存されています。
画像は材料降下坑口跡と材料運搬車の模擬展示。
先頭が、採掘用工具などを運ぶ工具車、
真ん中が掘った穴のための支柱を運ぶ坑木車、
一番後ろが石炭採掘後の空間を埋める材料を運ぶタンク車
だそうです。





三池炭鉱

入坑のために人を運んだトロッコも、
プラットフォームとともに残っています。





三池炭鉱

新しい時代のものだと想いますが、
坑内で使われていた機器も展示されています。
画像はドリルジャンボ。
エイリアン2に登場するパワーローダーをも連想させるルックスですが、
映画のように重量物の運搬機器ではなく、
坑道の掘り進みの際に使うダイナマイトを挿入する穴を、
岩盤に開ける機器だそうです。



明治初期の官営時代の炭鉱を今に伝える宮浦坑は、
数少ない貴重な遺産だと想います。

三池炭鉱 #05:宮原坑

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の二番目は宮原(みやのはら)坑です。

三池炭鉱

大牟田の長閑な住宅街に忽然と姿を現す、
高さ22m、鉄骨トラス製の竪坑櫓とその関連施設は、
国の重要文化財および指定史跡で、かつ
昨年世界遺産へ推薦提出された、
『明治日本の産業革命遺産』の構成遺産でもあります。
当初、坑内の排水を最大の目的として作られた坑道でしたが、
排水の効率が目覚ましく、
坑道完成後は採炭のための坑道としても使われた、
明治から大正にかけての主力坑道の1つです。





三池炭鉱

明治31年(1898)にまず第一竪坑が開削され稼働します。
写真は明治31年の宮原坑の様子なので、
竪坑櫓が1つしかありません。





三池炭鉱

現存する竪坑櫓は明治34年(1901)年に竣工した、
第二竪坑櫓です。
第一竪坑が、揚炭・排水・入気の役割を果たしていたのに対し、
第二竪坑は主に人員と資材の昇降を目的に使われました。
写真は大正8年の宮原坑の様子なので、
竪坑が2つ写っています。
手前が現存する第二竪坑櫓、
奥が既にない第一竪坑櫓です。





三池炭鉱

第二竪坑櫓を正面(という言い方でいいかは分かりませんが)から見ると、
基礎部分に巨大な煉瓦の壁があります。
これは手前にあった建物の一部で、
團琢磨が導入した当時最新鋭の排水ポンプである、
デビーポンプが置かれていた建物の壁面の跡です。
三池炭鉱にとって坑内の出水は大きな難題でしたが、
このデビーポンプの導入によって克服したそうです。





三池炭鉱

写真は大正6年(1917)年宮原坑山ノ神大祭余興
と題されたものですが、
おそらく左側に写る建物が、
デビーポンプが設置されていた建物だと想います。





三池炭鉱

櫓の横には汲み出した地下水を排水していた、
極太の配水管もきれいな形で残存しています。





三池炭鉱

既に第二竪坑の坑口は閉塞され、
坑内通気のための管があるだけですが、
周囲の構造がそのまま残っているので、
かろうじて操業時の様子を偲ぶことができます。





三池炭鉱

坑口跡の上には、ケージが残されています。
人員も昇降していたケージにしては、
だいぶ小さい印象を受けます。





三池炭鉱

ケージの手前には画像の様に四角い鉄板が敷かれ、
その両サイドに軌道が続いています。
これは、鉄板の上にトロッコを乗せ、
人力で回転させて向きを変えるための設備だと、
見学会のガイドさんに伺いました。





三池炭鉱

また、宮原坑は竪坑櫓だけでなく、
ケージを昇降させる巻上機があった捲座も残存しています。
煉瓦造りの奇麗な捲座で、
上部をアーチ状に作り込んだ窓が印象的です。





三池炭鉱

捲座の内部には、操業時と同じ状態で、
黒光りする巻上機が今も保存されています。
巻上機は当初蒸気機関によって稼働していましたが、
昭和33年(1958)に電気動力に変わったので、
現在では、前出の操業時の写真に写る、
ボイラーの煙突はありません。





三池炭鉱

宮原坑は昭和6年(1931)に採炭坑道の役目を終えますが、
排水施設としては三池炭鉱の閉山する平成9年(1997)まで稼働しました。

前回アップした宮浦坑とともに、
三池炭鉱の黎明期の姿を今に伝える貴重な遺産だと想います。



【宮原坑】

福岡県大牟田市宮原町1丁目86-3
毎週日曜日 午前10時〜午後5時まで公開。
見学無料。

三池炭鉱

三池炭鉱 #06:万田坑1

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の三番目は万田坑です。

このシリーズでアップしている施設は、
一昨年の夏および初冬に三池を訪れた際に見学した物件ですが、
唯一この万田坑だけは10年以上前から時々訪れていました。
ですので、記事内の現在の姿の画像は、
この10年のものを織り交ぜてアップしていきます。

三池炭鉱

数多ある三池炭鉱の施設の中で、
もっとも炭鉱の操業時の姿を今に伝えているのが、
この万田坑です。
前回、前々回とアップして来た宮浦坑、宮原坑と同様、
その多くの施設が国の重要文化財に指定されています。

三池炭鉱が県を越えて大牟田市と荒尾市にまたがっている話は、
このシリーズの沿革の前編でお伝えしましたが、
基本的に殆どの施設は大牟田市にあり、
唯一この万田坑だけが荒尾市に属します。





三池炭鉱

万田坑は、
明治35年(1902)から昭和26年(1951)まで稼働した炭鉱で、
明治期に造られた炭鉱施設の中では、
国内最大規模のものでした。

当時日本一の大会社だった三井が、
模範となる様な坑口施設をつくらんと、
総力を結集して完成させた、
いわば三池炭鉱のシンボルのような坑口施設です。





三池炭鉱

画像は万田第一竪坑の創業時の姿。
万田の第一竪坑は、
明治30年(1897)に開発が始まり、明治35年(1902)に稼働しています。
実に5年の歳月を費やした掘削と整備は、
この坑道がいかにしっかりと造られたものかを物語っています。
櫓の高さは31mとその規模も大きく、
どっしりとした外観は、そのまま三井炭坑の、
安定的発展を象徴しているかの様です。





三池炭鉱

明治38年(1905)年頃の第一竪坑の巻上機。
この時代の動力が蒸気機関だったことを考えると、
手前に写る木製の筒はシリンダーでしょうか。
スチームパンク時代の重厚な音が今にも聴こえて来そうです。





三池炭鉱

写真は明治40年(1907)頃の入坑の様子。
右側の人が手に持つ大きなざるは、
掘り出した石炭を運ぶためのもの。
沿革の前編でも触れたように、初期の炭鉱では、
先山と後山の二人でコンビを組み、
先山が採掘、後山が運搬を担当しました。





三池炭鉱

第一竪坑とほぼ同時期の明治31年(1898)に開発が始まりながら、
第一竪坑よりも更に長い10年の歳月をかけて完成したのが、
深さは264mの第二竪坑です。
手前左に写るのが第一竪坑、奥が第二竪坑。

第一と第二の竪坑が完成したことで、
第一を揚炭・入気・排水に、
第二を人員の入坑・資材の昇降・排気・排水に、
それぞれ使い分けられました。





三池炭鉱

第一竪坑用のデビーポンプ。(大正14年(1925))
勝立坑や宮原坑で導入された世界最大の揚水様デビーポンプは、
万田の第一竪坑でも使われました。
それにしても凄いルックスですね。





三池炭鉱

第一竪坑の櫓は昭和26年(1951)の閉坑後、
昭和29年(1954)に解体され、
その後北海道の三井芦別炭鉱の櫓として活躍し、
平成8年(1996)に解体されたそうです。
現在万田では、この記事の上から3番目の写真にも写る、
櫓が乗っていた巨大な基礎が残るばかりです。





三池炭鉱

しかし櫓はないものの、
271mの竪坑は現在でも残っています。
行政指導のもと、三井鉱山による水位等の計測のために、
現在でも竪坑が塞がれていません。
通常、炭鉱の竪坑は閉山と同時に閉塞されるので、
第一竪坑のようにそのまま残存しているのは、
極めて珍しい例となります。

奥に見える水流は、上がって来た湧き水。
その水量はかなり多い様で、
数十メートル上の竪坑口からも、
水流による爆音が聴こえます。





三池炭鉱

第一竪坑は、竪坑以外解体されてしまいましたが、
第二竪坑はその周辺施設とともに現存しています。
櫓は高さ18.9mなので、宮原坑の竪坑櫓より実際は低いのですが、
横幅があるために、宮原の櫓より大きく感じられます。





三池炭鉱

この2枚の画像は10年前の万田第二竪坑櫓。
この記事の一番上の現在の姿と比べると、
相当錆び付いていいたのがわかります。





三池炭鉱

櫓の真下にある第二竪坑の坑口跡。
竪坑こそ塞がれているものの、
それ以外の施設がほぼ完全な形で残る第二竪坑の坑口は、
竪坑がどのような施設だったかをリアルに知ることができる、
とても貴重な産業遺産。

左手前下に写る軌道は、
人員や資材を乗せたケージの、
地上での移動用線路。





三池炭鉱

軌道は、囲まれた薄暗いトンネルを抜け、
やがて坑外施設へと続いています。

次回は竪坑関連以外の施設を取り上げます。



【万田坑】

荒尾市原万田200番地2
0968-57-9155(万田坑ステーション)
見学時間:午前9時30分〜午後5時
休館日:毎週月曜および年末年始
見学料金:大人400円、高校生300円、小・中学生200円

三池炭鉱

三池炭鉱 #07:万田坑2

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の万田坑の続きです。
前回は沿革と竪坑関連の施設をアップしたので、
今回は敷地内に残るそれ以外の施設です。

三池炭鉱

まずは捲座(まきざ)です。
捲座とは、人員昇降の為のケージを上下させる、
ワイヤー式の巻上機がある場所のことです。
前回アップした画像の、竪坑櫓の隣に建つ、
煉瓦造りの建物が捲座です。


三池炭鉱


内部には、長いロープを巻き付けた大きなドラムがあり、
ケージを上下させていました。





三池炭鉱

巻上機の側面には巨大なモーターが設置されています。
モーターが壁を破ってはみ出しているのは、
おそらくかつて蒸気機関だったものを、
電動に変えた時のモーターの大きさによる、
やむおえない措置ではないかと想います。





三池炭鉱

鋼製のユーモラスなロボットの様な形をしたものは、
速度計測装置。
ケージは1分間で270mのスピードだったので、
竪坑の底まで約1分で降りていた計算になります。
かなり早い速度ですね。





三池炭鉱

巻上機は最初の画像の左側の建物内にあり、
右側の建物には資材昇降用のウィンチが設置されています。
黒光りする巨大な歯車は、
これぞ産業遺産といったオーラを強烈に放っています。





三池炭鉱

捲座以外にも、各種施設が残存しています。
安全灯室および浴室の建物もまた重厚な煉瓦造りです。





三池炭鉱

鉱員用の浴室は、他炭鉱のそれに比べると思いのほか小さく、
本当にこんな大きさで、
万田坑で働いた炭鉱マンの入浴をまかなえたのかと想う程です。
尚、浴室は、かつて申し込み制の見学時代には見ることができましたが、
現在の一般公開になってからは見学が出来なくなっています。





三池炭鉱

画像は「職場」と呼ばれる、
炭鉱で使う機器のメンテや製造を行なう場所。
トロッコのレールとプラットホームを併設した造りは、
炭鉱ならではの雰囲気を醸し出しています。
数年前に屋根が崩落して、一時は存続が危ぶまれましたが、
その後補修され、現在では内部も見学できます。





三池炭鉱

かつての事務所棟も残っています。
これもまた重厚な煉瓦造りで、
トマソンが残っているのは、
かつて手前にも施設の建物があった名残です。





三池炭鉱

その他、汽缶場(ボイラー室)の煙突の巨大な基礎や、





三池炭鉱

構内を縦横無尽に走っていたトロッコとその軌道、





三池炭鉱

さらには、トロッコの脱線防止用のストッパー、
通称「ヒンコツ」と呼ばれる装置等、
大小様々な施設が残存し、
炭鉱施設がどういうモノだったかを、
克明に現在に伝えています。





三池炭鉱

また炭鉱の神様である山の神を祀った、
山神社も構内に残されています。
そしてこれら残存する施設全てが、
国の重要文化財に指定されています。



【万田坑】

荒尾市原万田200番地2
0968-57-9155(万田坑ステーション)
見学時間:午前9時30分〜午後5時
休館日:毎週月曜および年末年始
見学料金:大人400円、高校生300円、小・中学生200円

三池炭鉱

三池炭鉱 #08:三井港倶楽部

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の次は、三井港倶楽部。

三池炭鉱

平成17年(2005)に大牟田市の文化財に指定された三井港倶楽部は、
明治41年(1908)、三池港の開港と同時に開館しました、
三井関係の社交倶楽部兼外国高級船員の宿泊、そして、
皇族を始め政財界人の迎賓館として広く利用されてきた建物です。





三池炭鉱

写真は大正15年(1926)の港倶楽部の外観。
約100年前の姿は、今と殆ど変わりません。





三池炭鉱

倶楽部のエントランスロビーはかなりゴージャス。
実はこの建物は解体の危機から甦った建物でした。
昭和61年(1986)に大改修され一般公開されていたものの、
平成16年(2004)に閉館し、解体の危機に晒されました。
しかし地元経済界による保存会が設立され、
所有者の三井から払い下げられて、
元来のレストラン兼結婚式場として甦りました。
市民の声が保存に繋がった貴重な建物です。





三池炭鉱

玄関には、昭和37年(1962)の
「日産15000t祝い」と彫られたレリーフがあります。
1962年といえば、
労働争議として最も有名な三池闘争(1953、1960)と、
戦後最大の産業事故と言われる炭塵爆発(1963)の
ちょうど間の年にあたり、
国内全ての炭鉱の出炭量が、
戦後最大になった年でもあります。





三池炭鉱

白一色に塗装されたトイレ。
個室の扉や洗面台の壁面は木製で、
床はタイルばりなところが時代を感じさせてくれます。
床のタイルが白一色ではなく、
灰色をランダムに混在させているところがニクい演出です。





三池炭鉱
コンソメスープとオムライスを頂きました。
どちらもしっかりとした西洋料理で、
とてもおいしかったです。
昨今、デミグラスソースをかけるオムライスを良く見かけますが、
やはりオムライスは、
真っ赤なケチャップがかかってオムライスだと想います。





三池炭鉱

門から玄関へのアプローチの道すがら、
後の記事で触れる予定の大浦坑の顕彰碑があります。
大浦坑にあった油倉庫の遺構から造られたそうで、
正面に書かれた「大浦坑遺址」の文字には、
團琢磨の署名が入っています。

ところでこの煉瓦造りの部分ですが、
大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方に、
蒟蒻煉瓦が使用されているとうかがいました。
確かによく見ると、





三池炭鉱

通常の煉瓦よりはるかに薄い、
蒟蒻煉瓦にちかい比率をしています。
ちなみに蒟蒻煉瓦とは、
幕末から明治初期のごく短い間、
長崎で製造・使用された煉瓦として有名ですが、
蒟蒻煉瓦の記事参照)
三池でも蒟蒻煉瓦が使われていたのは初めて知りました。



【三井港倶楽部】

福岡県大牟田市西港町 2-6
0944-51-3710
基本的にレストラン営業
ランチ:11:30〜14:30 ディナー:17:00〜21:00
定休日:毎週火曜
official site:http://www.minato-club.co.jp/index.html

三池炭鉱

三池炭鉱 #09:三池集治監

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の次は、三池集治監跡です。

三池炭鉱

写真は明治17〜18年(1884~5)頃の三池集治監。
集治監とは国が運営する監獄のこと。
各自治体が運営するものを「監獄」と呼ぶのに対し、
国が直轄で運営する場所を「集治監」と呼ぶのだそうです。

三池集治監は明治16年(1883)に設置され、
昭和6年(1931)までの約50年、囚人の収容所でした。
そして官営時代の三池炭鉱は、その当初から、
囚人を石炭採掘の労働力としていました。
そして、三井の時代になっても囚人による炭鉱労働は続き、
昭和6年(1931)に囚人労働が停止されるまで
行なわれていたと言われています。

停止と同時に集治監は廃止、殆どの施設は解体され、
5年後には三池工業高校が移転して、
集治監があった歴史は表向き封印されました。





三池炭鉱

しかし、三池工業高校の周りを囲む、
高校にしては頑丈でいささか高すぎる様に見える塀は、
かつての集治監時代の塀です。
一時期はモルタルで奇麗に塗装されていた様ですが、
多くの場所で剝落し、
集治監時代の煉瓦塀が露見しています。





三池炭鉱

上画像の反対側(西側)の塀も、
その殆どが集治監時代のものです。
こちら側は、塀だけに留まらず、
かつて出入り口として使われていた跡を、
塞いだと想われる形の箇所があります。





三池炭鉱

正面玄関へ通じるスロープおよびその左側には、
公立高校としては重厚すぎる印象の石垣がありますが、
これらもまた集治監の為に造られた構造物の名残です。





三池炭鉱

校舎改築に伴った発掘調査で、
必要以上に狭く造られた大便器の排便管や、
厩舎の周囲に敷かれた板石などが見つかったそうですが、
これらはいずれも監獄ならではの脱出防止のための構造です。

炭鉱が国内で現役だった時代、
炭鉱は決して賞賛や羨望の眼差しで見られる職場ではなかったのを覚えています。
どちらかというと暗く否定的な発言を聞くことが多かったと想います。
勿論、昭和の後半に稼働していた炭鉱は、
その殆どが近代化され、
労働条件も他企業と同じかそれ以上の待遇だったとは想いますが、
それでもダークなイメージが消えなかった要因の1つには、
この囚人労働という歴史が大きく関わっていると想います。

集治監時代の煉瓦塀と石垣は、
現在福岡県の有形文化財に指定されています。



【三池集治監跡】

大牟田市上官町4丁目77
三池工業高校の玄関スロープ及び外塀の一部なので、
敷地外からは常時見学可能。

三池炭鉱

三池炭鉱 #10:三川電鉄変電所

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の最後は、三川電鉄変電所です。

三池炭鉱

以前にアップした三池港倶楽部からほど近いところにある、
重厚な煉瓦造りの細長い建物は、
かつて三池の炭鉱鉄道の変電所でした。





三池炭鉱

明治40年(1907)に隣接地に建設された発電所の創業を受けて、
明治42年(1909)に、鉄道用の変電所として建てられたものだそうです。
ということは築105年になりますか。
しかし、現存する煉瓦の外壁を見る限り、
とても100年以上も経っているとは想えない程奇麗です。





三池炭鉱

実はこの建物は三池炭鉱の閉山に伴いその役割を終え、
解体の危機に瀕した建物でした。
しかし、
三池炭鉱の電気工事の仕事を請け負っていた会社<サンデン>が、
仕事を通じて建物の価値を知り、また愛着もあることから、
異例の企業買い取りによって現存保存されることになった、
極めて珍しい建物です。

上部の小窓にはステンドグラスがはめ込まれていますが、
まあ、これは当然炭鉱時代からのものではなく、
サンデンの社長さんの奥さんの趣味と聞きました。

果たしてステンドグラスが入っているのがいいかどうかは別にして、
港倶楽部同様、三池には公共ではない機関が働きかけ、
保存された建物があることが分かります。

ちなみにこの建物は、
国指定の登録文化財です。



【三川電鉄変電所】

大牟田市新港町 1-30
敷地外からは常時見学可能。
内部見学は電話申し込みで。
株式会社サンデン 0944(57)6435

三池炭鉱

◆ シリーズ 三池炭鉱 ◆
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三池炭鉱 #11:有明坑

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
これまで国や県などから文化財として指定され、
ちゃんと保存されている遺構をアップして来ましたが、
これからは惜しくも解体されてしまった遺構を少しアップします。

まず最初は「有明坑」です。
このシリーズをアップする切っ掛けは、一昨年の夏、
有明坑竪坑櫓の最後の姿を見学に行ったことに端を発します。

三池炭鉱

江戸時代から数多坑道を開削して来た三池炭鉱にとって、
有明坑はほぼ最後に稼働した坑道でもあります。
もともと日鉄が開発していたものの、
技術力が追いつかずに断念したものを三池が買収した坑道でした。
三池はその技術力でなんなく着炭し、
昭和51年(1976)に創業を開始します。

その後四ツ山坑、三川坑(共に後日の記事で触れます)とともに、
三池の終盤期をささえる主力坑道となり、
昭和64年(1989)からは、それらを統合した三池坑の、
メインの坑道として閉山まで稼働しました。





三池炭鉱

三池炭鉱の閉山後、
有明坑は周辺施設とともに残存していましたが、
やがて様々な施設は解体され、
最後まで残っていたシンボルである2つの竪坑櫓も、
一昨年の夏に解体されてしまいました。

この画像はその解体直前の見学会の時に撮影したものです。
大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブが主催の見学会に参加させて頂き、
初めて有明坑を実際に見たわけですが、
それは解体直前の姿でもあったわけです。





三池炭鉱

第一竪坑の櫓は俗に合唱型とも呼ばれる、
シンメトリーな形をした櫓で、
その形は世界遺産にも登録されている、
炭鉱の竪坑櫓としてはおそらく世界で一番知名度の高い、
ドイツのツォルファアイン炭鉱の第12竪坑にも似た形をしています。





ツォルファアイン炭鉱第12竪坑櫓

ツォルファアイン炭鉱の第12竪坑櫓





三池炭鉱

またすらりとした外観の第二竪坑の櫓は、
長崎県の池島炭鉱に現存する、
第二竪坑櫓ににた形をしたもので、
第一と第二、ともに三池炭鉱の最後の炭鉱技術を伝える、
貴重な遺産でした。





池島炭鉱

池島炭鉱の第二竪坑櫓。





三池炭鉱

有明坑竪坑櫓の保存活動は、
解体の話が持ち上がってから始まったものでした。
しかし、それはあまりにも遅すぎた行動でもありました。
結局保存活動は実ることなく、
2つの巨大な櫓はあっけなく解体されてしまいました。



【有明坑跡】

みやま市高田町昭和開
地図はかつて有明坑があった場所。
有明坑は全ての施設が解体され、
さらにその敷地は企業の私有地となっています。

三池炭鉱

三池炭鉱 #12:四ツ山坑

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
惜しくも解体されてしまった施設の2つ目は、
その櫓の形がとても特徴的だった四ツ山坑です。

三池炭鉱

大正12年(1923)に開削された、
三池炭鉱では中期に活躍した坑道の四ツ山坑は、
なっといってもその竪坑櫓の形が際立っていました。
ワインディングタワー式と呼ばれる竪坑櫓で、
志免炭鉱、真谷地炭鉱、中興鉱業、羽幌炭鉱、
そしてこの四ツ山とあわせて、
国内では5基しか造られなかった形の櫓の1つです。

ワインディングタワー式の竪坑櫓に関しては、
以前アップした志免炭鉱の記事で触れているので、
そちらをご覧下さい。

志免鉱業所竪坑櫓 #02

四ツ山坑は昭和40年(1965)まで稼働しました。
その後タワー櫓は残っていましたが、
保存の声も届かず、惜しくも平成8年(1996)に解体されました。
それは三池炭鉱閉山の前年でもありました。





三池炭鉱

(画像は大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
現在はその基礎が残るばかりで、
華麗なワインディングタワーの姿を見ることはできません。
この櫓は、三池炭鉱だけではなく、
国内の炭坑史の中でも貴重な技術として存続しても良かったしせつなので、
こうして亡くなってしまったことを思うと、
とても残念です。



【四ツ山坑跡】

福岡県大牟田市新四ツ山
地図はかつて有明坑があった場所。
四山坑はほとんどの施設が解体されています。

三池炭鉱

三池炭鉱 #13:ダンクロ・ローダー

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
惜しくも解体されてしまった施設の最後は、
三池炭鉱の生みの親、團琢磨にも所縁が深いダンクロローダーです。

三池炭鉱

明治44年(1911)に製造された高速石炭船積機。
開発者の團琢磨と黒田恒馬の頭文字をとって、
「ダンクロ」の愛称で親しまれたローダー。





三池炭鉱

(画像は大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
その愛称と特徴的なルックスは印象深く、
いつか三池を訪れたら、必ず見ておこうと想っていた施設でした。





三池炭鉱

(画像は大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
しかし、平成16年(2004)に、保存活動も虚しく解体されてしまいました。
解体のニュースは大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方々の、
ブログやSNSの記事で知りましたが、
とてもショックだったのを今でも覚えています。

四ツ山坑、有明坑、そしてこのダンクロ・ローダーは、
いずれも三池炭鉱の、ひいては国内の産業の発展の過程を記憶に留める、
貴重な産業遺産だったと想います。

しかし一度解体されてしまった施設は、
二度ともとには戻りません。
それは産業の記憶と文化を消し去ってしまうことに、
ほかならないと想います。



【ダンクロ・ローダー跡地】

福岡県大牟田市新港町
地図はかつてダンクロ・ローダーがあった場所。
現在ではほとんどの施設が解体されています。

三池炭鉱

三池炭鉱 #14:龍湖瀬坑

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
これまで三池炭鉱の施設の中で、
既に文化財として保存されているものと、
逆に、保存活動もむなしく失われてしまったものをアップして来ました。
これからは、現存してはいるものの、
まだ文化財等に指定されていないもの、
すなわちいつ解体されてもおかしくないが、
活動の如何によっては、
文化財として後世に伝えられる可能性のあるものをアップしていきます。

三池炭鉱

このシリーズの最初の頃の沿革で既にお伝えした通り、
三池炭鉱は江戸時代にかなりの発展を遂げていた炭鉱でした。
それにともなって、江戸時代に既に多くの坑口も造られていました。

そしてそれら江戸時代の坑口は、
現在の大牟田市の中でも内陸の位置に造られていました。
石炭発見伝説の残る稲荷山(とおかやま)も、
地図の左上に描かれています。
江戸時代、この地域には石炭が地表に露出した場所(露頭)が多くあり、
その露頭をたよりに掘り進んだために、
このエリアに坑口が集中しています。





三池炭鉱

その後明治の官営の時代を経て、
三井の時代になるにつれて、坑口は徐々に西へ、
すなわち大牟田湾へ向かって造られて行きます。
図を見ると、坑口が東から西へ行くに従って、
時代が下っているのが分かると想います。
これは、石炭の層(炭層)が、
江戸時代に掘削していたエリアから、
西に向かって続いていたためです。





三池炭鉱

さて、そんな江戸時代から開削されていた坑口の1つ、
一番上の画像にもある龍湖瀬坑は、
現在でもその遺構がちらほらと残存しています。

画像は坑口のあった付近と想われる場所です。
画像からはその構造がよくわかりませんが、
実際に見ても、よくわかりません。
ただ、人工で造られた石の構造物が配置されているので、
明らかに何らかの施設があったのだと感じるだけで、
それも半分崩れ、植物に浸食されているので、
もはや施設の全貌を伺い知ることはできません。





三池炭鉱

また両側を石垣で築堤した構造も見られます。
これは、採掘した石炭を大牟田湾まで運搬するための、
運搬道路の一部かと想われますが、それもはっきりしません。
ただし、この石垣の構造物は、かなり長い距離に渡って残存しています。





三池炭鉱

唯一分かるのは、近年惜しくも自然崩壊してしまった
山の神祭祀跡です。
これは確かに、ここに祠があったのだと確認出来ます。





三池炭鉱

祠の手前には、既にその形がかなり変わってしまっていますが、
狛犬だっただろうと想われる構造物も残っています。





三池炭鉱

また祠の敷地内には、
「露頭坑 職員 従業員 一同」と彫られた手水があります。
裏側には「昭和十四年三月」とあります。
ご案内頂いた大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方のお話だと、
戦時体制に備えて、
このエリアの残存していた露頭の石炭も採掘したのだろう、
ということでした。

江戸時代の多くの坑口が、
いまではその姿を留めていない中、
この龍湖瀬坑がこうして残存しているのは、
戦中まで掘削が行なわれていたことによるのかも知れません。



なお、この龍湖瀬坑は、
官営の時代になっても使われていた坑口で、
坑口の付近に監禁所を設けては県内の囚人を収容し、
石炭の採掘および運搬の使役として使っていたそうで、
これが三池炭鉱の囚人労働の始まりと言われています。

江戸時代から官営、
そして戦時下の時代の記憶を残す龍湖瀬坑は、
その地味なルックスとは裏腹に、
三池炭鉱にとってはとても重要な遺構だと想います。



【龍湖瀬坑】

福岡県大牟田市龍湖瀬町
地図はだいたいその辺といったアバウトなものですみません。
現地へ車で行ったので、正確な場所を覚えていないので。

三池炭鉱

三池炭鉱 #15:生山坑

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シリーズでアップしている三池炭鉱。
現存してはいるものの、まだ文化財等に指定されていないもの、
すなわちいつ解体されてもおかしくないが、
活動の如何によっては、
文化財として後世に伝えられる可能性のあるものをアップしていきます。

その2つめは生山(いもうやま)坑です。

三池炭鉱

前回アップした龍湖瀬坑同様、
江戸時代に既に藩営の坑道として開削されていた坑口です。
画像の左寄りに全開アップした龍湖瀬坑、
右寄りの高取山の麓付近に生山坑がありました。
生山坑も龍湖瀬坑同様、
明治時代に入って官営の時代になっても創業した坑口でした。





三池炭鉱

現在では坑口などは殆どわかりませんが、
鬱蒼と茂る薮の中に、
他の古い時代の坑口にはない貴重な施設が残存しています。
「登治焼場」(とじやきば) と呼ばれる、
石炭を蒸し焼きにした施設の跡です。





三池炭鉱

殆どただの雑木林にしか見えない薮の中に、
確かに言われてみると、焼けこげた跡のある、
煉瓦造りの構造物が確認出来ます。
おそらく天井部分は崩落し、
左右の壁面だけが残存しているのだと想いますが、





三池炭鉱

左右の壁面の外壁部分を見ると、
小規模な煙突が立っていたであろうと想われる窪みが、
いくつも確認出来ます。

生山坑の詳細はまだ殆どわかっていない様ですが、
藩営から官営時代の三池を今に伝える、
とても貴重な遺産だと想います。

尚、生山坑は現在私企業の私有地内にあるため、
一般の見学はできません。
画像も大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様を通して
許可を頂いて撮影したものです。
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