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Channel: 黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)
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長崎産業遺産視察勉強会〜池島炭鉱編1〜

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前回の記事に引き続き、
今年の7月に行なわれたJ-ヘリテージ主催の、
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。

J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。

そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
今回は池島炭鉱の視察のリポート前半です。

池島炭鉱跡

池島炭鉱は長崎県中部の外海側にある小島で、
かつて島内に大きな池があることから池島と呼ばれていましたが、
1950年代の後半、炭鉱の開発によって池は港に改築され、
島の多くが炭鉱とその住宅施設に変貌した島です。
約40年にわたって操業した池島は2001年に閉山し、
その後約10年、東南アジアの研修所として使われ、
現在では全ての操業が停止しています。

軍艦島の視察は昼過ぎからの約2時間で、その足で池島へ。
軍艦島の視察中は運良く晴れていたましたが、
池島へ向かう途中、雲行きは再び怪しくなり、
フェリーから見る池島の上空には、重たい雨雲が乗っていました。





池島炭鉱跡

しかし島に着く頃にはまたまた運良く晴れ出し、
以降2日に渡る池島視察中は、ずっと晴天に。
港にはいつものように沢山の猫がいます。
島民が減少の一途にある池島では、
もはや島民より猫の方が多いと言われる程、
猫島化している島でもあります。





池島炭鉱跡

この日は夕方遅くに島に到着したので、
特に見学とかはなかったので、ちょっと島内を散策。
島の奥に建つ8階建てのアパートが、
夕日に照らされたオレンジ色に染まっていました。



夜は懇親会が開かれ、
約40人の参加者が自己紹介を兼ねて、
ご自分の活動等のPRをすることになったのですが、
みなさん、情熱的な方ばかりで話にも熱が入り、
結局それだけで終わってしまいました。
ご自分に関係のある地域活性化の活動をされている方や、
産業遺産の保存を考えている方等、
みなさん素晴らしい活動をされている方々でした。





池島炭鉱跡

翌朝の朝ご飯は、島内で唯一常営している食堂、
「かあちゃんの店」のまかないで合宿気分です。





池島炭鉱跡

午前中は坑外施設、つまり炭鉱の坑道以外の施設の見学です。
繰込所(あるいは発進所)は、
坑道へ仕事で入る前に待機して、装備の点検や準備をするところ。
正面には「あとでよりいまが大切 点検と確認」と、
いかにも炭鉱らしい標語が掲げられていますが、
実はこの掲示は、今年の夏池島でロケが行われた、
映画『池島譚歌』のロケ用に新しく設置されたものです。
※もしかしたら映画『信さん・炭坑町のセレナーデ』の時かも…
でも、本物より本物っぽいですね。





池島炭鉱跡

繰込所の建物の一階には、
操業時の写真が展示されたスペースがあります。
右側に写るのは上から三枚目の画像の8階建てのアパート。
もう今では灯りがともることのないアパート群に、
沢山のあかりが灯っています。



この後、様々な坑外施設を見学するのですが、
多くは以前の記事で既に触れているので、
そちらをご覧になって頂ければと思います。
・繰込所のある建物内の炭鉱風呂や管理室(この記事の中頃)
・繰込所のある建物の隣の第二竪坑の捲座(この記事の終わり頃)
・斜坑人車の捲上機(この記事の冒頭)
などなど





池島炭鉱跡

そんな中、
以前の見学時には外観だけを横目で見ていた画像の施設を、
今回はじっくりと説明して頂きました。
この施設は扇風機と言って、坑内の空気を循環する為の施設です。
下部に写る黒い筒の中に大型の扇風機が設置され、
坑道に繋がっている左側から右に写るラッパ状の吹出口の方向へ、
空気を排出する装置です。
炭鉱では、空気を送り込むのではなく、
排出することによって、別の坑口から自然に空気が入る様に作られています。





池島炭鉱跡

上画像の左側を見た所。2つの同じ構造物があります。
右は鉄の板があり左にはないように見えますが、
ないのではなく、下に降りています。
鉄の板が弁の役割を果たし、
今は右側の方が通気出来る状態にあることを示しています。
万が一右の扇風機が故障した際には、
即座に右の鉄の板を降ろし、左の鉄の板を引き上げて、
左側で通気を行なう仕組みになっています。
通気は坑道の中で働く炭鉱マンの命綱。
24時間、決して休むこと無く動き続ける必要があります。





池島炭鉱跡

坑外施設の見学の後は住宅棟エリアの見学です。
炭鉱アパートの中に一部屋だけ、
見学出来る様に解放された部屋があります。
内部はちょっと作り込みが多く、
あまり当時のリアルな生活を偲ぶことはできませんが、
それでも間取りやトイレ事情等、
炭鉱アパートがどのようなものだったかを知ることはできます。
それを見る限り、決して炭鉱アパートの部屋は広くはなく、
たとえ高給取りだったとしても、
その生活は派手なものではなかったんだと思います。





池島炭鉱跡

玄関のノブの下には、
「ヨシ!」と声をあげる炭鉱マンのイラストシールが貼られています。
このかけ声は炭鉱での仕事で、安全を確認する時のかけ声です。
後貼りかそれとも当時から貼ってあったものかはわかりませんが、
炭鉱アパートならではですね。





池島炭鉱跡

そのほか島内を周回する道も一回りし、
その周囲にある施設も一通り見学。
気になったのは画像の汚水処理施設。
汚水といってもいわゆるし尿処理。
果たしてこの装置がどう処理してくれるか想像もつきませんが、
島という環境は、
陸続きの生活以上の苦労がつきものなのだと実感します。

次回、池島炭鉱の後半は坑道内の見学です。

長崎産業遺産視察勉強会〜池島炭鉱編2〜

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前回の記事に引き続き、
今年の7月に行なわれたJ-ヘリテージ主催の、
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。

J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。

そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
今回は池島炭鉱の視察のリポート後半です。

池島炭鉱跡

午後はおもに坑道内の見学。
6月にアップした池島の記事の冒頭で触れたトロッコに乗って、
ゆっくりと坑道の中へ入って行きます。
この坑道は地表と水平に作られた坑道で、
もともとはボタを棄てるトロッコの為の坑道でした。
なので、見学のために作られたあとずけのものではなく、
リアルな坑道です。





池島炭鉱跡

人数が40人と多かったので、
坑道内は二班に分かれての見学です。
ガイドをして頂いたのは、池島でお仕事をされていた堀之内さん。
電気関係のお仕事が専門でしたが、
炭鉱のあらゆる施設を熟知されています。
坑道に入るとまずパネルが設置されていて、
池島のあらましを知ります。
堀之内さんが指し示しているのは、
港が池だった時の池島。
この池には龍がいました!と超まじめお顔でお話されます。





池島炭鉱跡

その次は主に掘削作業に使う機器の見学。
画像の右に写るのはロードヘッダーという掘削機。
この機器に関しては以前の記事の中頃で触れているので、
そちらをご覧下さい。





池島炭鉱跡

その先にはドラムカッターとう大型の機械が動態保存されています。
この機器は、あるときは野外展示、ある時は坑外の建物の中と、
見学に来るたびにいつも異なった場所に置かれています。
そして今回は、坑内に設置されていました。
坑道内に模擬の炭層を造り、掘削の様子が具体的に分かる仕組みになっています。
左寄りに写る白いとんがりが沢山付いている部分で石炭層を削り、
中央下のコンベアへ落として行きます。
右寄り上部に写る白っぽい天井は自走枠とよばれる装置。
掘削機が掘り進むのに合わせて、
同じ方向へ進みながら作業スペースを確保する機器です。





池島炭鉱跡

自走枠の天井を見ると無数の水滴。
坑道内は湿度が高く、過酷な労働環境だということが分かります。





池島炭鉱跡

数々の掘削機を見た後は、
保安や安全に関する設備のコーナー。
画像はエアーマントと呼ばれる装置。
普段は黄色いパイプの左端に写る様に、
小さな袋が吊るさってるだけですが、
袋を拡げるとポンチョのような状態になり人が入れます。
黄色いパイプを通して頭上から空気が送り込まれます。
坑内で酸欠やガスが発生する等の、
非常事態の時の救命装置のひとつです。





池島炭鉱跡

画像はベルを鳴らすスイッチ。
例えば停止していたコンベアを再度動かす時に、
周囲の注意を促す為に、下の紐を引っ張りベルを鳴らしたりします。
ご覧になっておわかりのように、かなりぼってりしていますが、
これは爆発を防ぐ防爆型と呼ばれる装置で、
この小さな装置一つで10万円だそうです。
坑内の装置は、電話からスイッチ等、
殆どの装置が防爆型で作られているので、
それだけでも相当の設備投資が必要なことが分かります。





池島炭鉱跡

防爆スイッチの奥には小学生の習字が展示されています。
これらは島内に唯一ある学校の生徒のもので、
お父さんに元気をあたえるため、
作業場の様々なところに張り出されていたそうです。
ところで名前がダナやラーハンなど日本人の名前じゃないものがみえますが、
これは2001年以降東南アジアから研修で来た家族の子供の作品。
ラーハンさんは3歳の頃日本に来て、
池島で10年過ごしたので、本国より日本の方が良く知っています。
結局ラーハンさんの家族は研修終了後に本国には帰らず、
そのまま日本に残って仕事をしているそうです。





池島炭鉱跡

そして今回特別に見学コースに入っていたのが、
竪坑の下部から上を見上げる場所。
炭鉱の坑道はガスが発生し易く、
操業が終わるとすぐに埋めたり水没させたりして閉鎖しますが、
池島はこうしてまだ坑道を使える様にしているので、
通気の為の竪坑だけは現在もそのままの状態です。
遥か上方に蓋のようなものが見えますが、
この上に竪坑櫓が聳えたっています。
そして蓋のすぐ手前に横穴があり、
その穴が前回の記事で取り上げた扇風機に接続し、
坑内の空気を排気する、というしくみです。

サーチライトを消すと漆黒の闇。
かつては周囲に設置されたガイドレールに沿ってケージが上下し、
この暗闇の中を、地底何百メートルも下へ降りて行きました。
炭鉱の竪坑がこうして残っていて、
しかも見学出来るのは極めて希少なものです。

そのあとは岩盤を打ち砕いて坑道を造る、
発破の作業の行程等を説明して頂きましたが、
発破に関しても以前の記事で取り上げているので、
そちらをご覧下さい。→この記事の中頃





池島炭鉱跡

こうして丸1日の池島視察は終わりました。
参加された皆さんも、この濃い2日間から、
産炭地のかかえる問題や素晴らしさなど、
多くのことを持ち帰られたのではないでしょうか。

地底産業の実際を見られる機会は殆どありませんが、
池島にはその全てが残っています。
池島を見るということは、明治以降の日本が造り上げて来た、
技術の叡智を知る旅です。
そして地底という漆黒の自然環境との戦いの歴史を知ることです。

軍艦島では主に住宅棟を巡り、
坂本さんの生活に根ざした感情寄りのお話。
そして池島では主に炭鉱施設を巡り、
元炭鉱マンの方の炭鉱に根ざした技術的なお話でした。
これらの両方をセットで見て聞いて、
はじめて炭鉱とはどんな所だったのかを知ることができると、
今回の長崎産業遺産視察勉強会に参加して思いました。

向山炭鉱の全貌

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以前の記事で一度取り上げたことのある、
佐賀県伊万里市にある向山炭鉱跡。
その時は海岸線の遺構しかわからず、
小規模な炭鉱だったんではなかいと思っていました。
しかし、先日『向山』というタイトルの、
おそらく閉山時かそれ以降に編纂されたと思われるアルバムを発見し、
実は向山炭鉱が巨大な炭鉱施設だったことを知りました。

向山炭鉱跡

これがその表紙です。
閉山記念ともなんとも書かれておらず、
また奥付にも年号のクレジットがないので、
いつ何の為に作られたアルバムかはわかりません。





向山炭鉱跡

しかし表紙をめくると最初に織り込みの地図があり、
なんとそこに向山炭鉱の全貌が書かれてあります。
※クリックすると施設名が読めるサイズの画像が見れます。
※小さい場合は、拡大や「実際のサイズで見る」にすると見れます。
この地図を見る限り、海岸から内陸に向かって、
少なくとも3km奥まで炭鉱施設があったように書かれています。
また坑口もざっと見ただけで3つはあったようで、
その規模の大きさがうかがえます。

なお地図の中央左よりに制作者のかたのコメントがありますが、
それを見ると「昭和63年(1988)」の年号があり、
また地図の作成者の成坂さんは、
奥付に「撮影・複写・編集」のクレジットがあることから、
恐らくこの写真集はその頃印刷されたものではないかと思います。





向山炭鉱跡

向山炭鉱の創業は大正元年(1912)にまで遡ります。
写真集ではただ「坑口」と書かれ、向山の最初の坑口とありますが、
果たしてそれが何と言う坑口かはわかりません。





向山炭鉱跡

地図のほぼ中央に「本坑口」の表記がありますが、
この写真が本坑口のようで、
確かに入坑口のアーチ上には「本坑」と書かれています。





向山炭鉱跡

写真集には「一枚坑坑口」と書かれた写真もありますが、
地図を見る限り、そのような名称の坑口はみあたらず、
逆に地図には「西坑口」(下より) や「新坑口」(上部右より) などがあり、
坑口もかなり造られていたことが分かります。
なお巻末の略年表を見ると、一枚坑という坑道は、
閉山間際の昭和35年(1960)に開発された坑道のようなので、
この地図に描かれた様子は、造られる直前のものなのかもしれません。





向山炭鉱跡

坑内も複線軌道だったようですね。





向山炭鉱跡

降炭エンドレス軌道。
エンドレスとはエンドレス状態のロープを回転させ、
そのロープに付いた引っかけに車輛を連結して運搬する方法。
写真を見る限り、地上施設もかなりの規模だったことがうかがえます。
またトロッコが木製なのが時代を感じさせてくれます。





向山炭鉱跡

そのほか、主に女性が従事した、
掘り出された鉱石から、石炭とそれ以外の廃石を選り分ける、
手選と呼ばれる作業場の光景や、





向山炭鉱跡

バウム水洗機と呼ばれる、近代的な石炭の選別機など、
炭鉱施設の詳細がわかる写真が多く掲載されています。
残念なのは、全ての写真に撮影年月などが書かれていないので、
どれがいつ頃の写真かまったく分からないことです。





向山炭鉱跡

これは地図で言うと右上寄りに書かれた新坑口付近の様子だと思います。
画面中央から左に目を移すと、縦に黒いものが蛇行して並んでいるのが見えますが、
これが石炭等を運搬するトロッコの車列で、
その最下部のちょっとクネっと左に曲がった所が新坑口です。
そして海に向かって桟橋が延び、その先に船積み施設が見えますが、
これがまさに以前の記事でアップした、
海上に残骸として残る遺構の部分です。
また画面左上寄りに白く四角い建物のようなものが見えますが、
これが坑道からトロッコを引き上げる捲上機がある施設。
そして、以前の記事の2番目にアップしてある画像が、
その施設の土台だったところになります。





向山炭鉱跡

また写真集には炭鉱のものばかりでなく、
当時の生活を伝える写真も多数掲載されています。
写真の下には「川南工業各工場対抗」の野球大会とあり、
昭和21年8月25日の日付も見えます。
川南工業とは、通称「伊万里造船所」の名でも知られる、
伊万里湾に面した海岸沿いにあった巨大造船所のこと。
昭和12年(1937)に、向山炭鉱は、
川南工業に譲渡され、以降川南工業の経営下になります。

そしてこの記念写真の背景に写る建物が、
おそらく川南工業造船所の建物だと思いますが、
完全な迷彩塗装の跡が見てとれます。

川南造船所は、戦中、軍用船の製造を行ない、
特に末期には特殊潜航艇の製造を行なっていたので、
当然、迷彩塗装を施す必要があったのだと思います。

この造船所に関しては、拙ブログでは特に詳しくアップしていませんが、
iPadやiPhoneをお持ちの方は、
iOSアプリ廃墟百花『さよなら、川南造船所』
をご覧になって頂ければと思います。(無料です)





向山炭鉱跡

「配給所内部」と書かれた写真。
男性の服装、そして配給所という言葉から、
恐らく戦中のものではなかと思いますが、
随分と充実した品揃えの配給所のように見えます。





向山炭鉱跡

浴場の風景。
子供たちが入っていることから、住宅棟内の浴場だと思いますが、
なんと24時間いつでも入浴可、さらに薬湯まであったと書いてあります。
例えば拙ブログでもよく取り上げる軍艦島こと端島炭鉱などを例にあげると、
住宅棟内の共同浴場は16時から21時と時間制限があり、
ましてや薬湯があったとは、一度も聞いたことがありません。
向山炭鉱の裕福な暮らしぶりがうかがえます。

向山炭鉱は昭和38年(1963)に閉山しますが、
約50年にわたる操業ですから、その期間も決して短くはありません。

もし機会があったら、
地図を頼りに向山炭鉱跡を探索してみたいと思います。

オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』の撮影終了

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来年3月発売予定のオープロジェクト新作DVD、
廃道クエスト Obroad Quest』の撮影が終了。
新作DVDのテーマは廃道です。
秋から冬にかけて、約3ヶ月にわたる廃道のロケでした。

今回のDVDは、今から二年半前の2010年の春に行なったイベント、
『廃線×廃墟×廃道 廃祭り2010』の時にご一緒させて頂いた、
廃道サイト『山さ行がねが』の管理人である平沼さんから、
イベント終了後に映像作品の話を持ちかけられたことに端を発します。

その後、DVDの制作でお世話になっている日活さんとの話し合いで、
廃道のDVDを作ってみることになり、
紆余曲折がありながらも、こうしてリリース予定までこぎ着けました。

平沼さん

これからの撮影に気合いを入れる平沼さん。
最初の撮影場所は栃木県の足利にある、越床(こしどこ)峠の旧道。
この廃道は、現在はハイキング・コースとして転用されているため、
誰でも歩行可能な廃道。
しかし、撮影中に私たち以外の訪問者は一人もいませんでした。





越床峠

道の周囲を鬱蒼とした緑に囲まれ、
その中を落ち葉積もるアスファルトの廃道がゆるやかに続く峠道は、
とても美しく、初めての撮影場所として格好な題材でした。





越床峠明治道

この峠道には、さらに明治時代に作られた、
ショートカットの道と隧道があったようで、そちらも探索。
明治の道は当然アスファルトではなく土と石。
かつては石畳などがあったのかもしれないけど、
今は道の側面の石垣が、かつて道だったことを伝えているだけ。
行く手には倒木や足場の悪い沢など。
それらを越えて行った先にあったのは、
なんと手掘りの明治時代の隧道。





越床峠

越床峠はオープロジェクト的にとても気に入ったので、
その後何回か訪れて撮影。
中には夜中に訪れ星降る廃道の撮影も行ないました。





万世大路

廃道の世界ではその名を知られる万世大路の旧道。
今ではただの廃屋と化してしまったものの、
かつては明治天皇がご巡幸した際に、休憩された家も現存。





万世大路

そして旧万世大路の中でも、もっとも難所と言われた栗子隧道跡。
昭和まで使われていた入口(左)と明治時代の入口の二つが残る光景は、
その歴史とともに風格のオーラを放っていました。





万世大路

明治時代の隧道を進むと、
なんと途中で隣の新しいトンネルの外壁が。
左が新しいトンネルの外壁、右が明治トンネルの外壁。
つまり、こっから先は明治トンネルを流用して、
新しいトンネルに作り替えられた、ってわけ。
こんな構造もかつてはあったんですね。





国道299号旧道

廃道の中には踏破困難な道も。
画像に写るのは埼玉県秩父の国道299号の旧道で、
道がどこにあったかと言うと、右上に写る石垣の手前。
ご覧のようにズルッといったら奈落。
でも、ここはまだ歩き易い方で、





国道299号旧道

その先には、上から下まで合わせると、
高さ200m位の、いわゆる崖崩れで完全に斜面と化した道。
その中腹あたりを横断するわけですが、
なんつっても崖崩れなもんで、足場は細かな砂利ばかり。
平沼さんはけっこう軽々渡ってましたが、
オープロはあっさり断念。
廃道探索は楽じゃない。。。





旧大滑トンネル

隧道もいろいろ撮影しました。
入口から100mくらいで閉塞している隧道の最奥に、
なぜかトラックが1台ポツン・・・





高長-切川隧道

山梨県の身延にあるこの隧道なんかは、入口は広いものの、
ちょっと進むと急に半分くらいの大きさのトンネルに。
さらにコンクリートで巻いてあるのもつかの間、
その先は削岩機で掘り進んだ岩肌が露出。
また更に奥の方に見える小さな光は、
極めて密閉度の高い洞門(ほぼトンネル)の窓明かり。
その先にまた素彫りのトンネルと、
短い距離でころころとその姿を変えるおかしな隧道。





南部新道

最後の撮影には、
廃道界では極めて珍しい、
女性探索者の石井あつこさんも参加。
石井さん推薦の隧道を見学したあとは、
南部新道という富士川沿いの廃道へ。





南部新道

この廃道は、行く手を阻む竹、竹、竹。
まるで竹が、この道を通ってはならぬ!と言っているかのよう。
道だとわかっていなかったら、絶対に進まないと思うも、
平沼さんは勿論、石井さんもすいすいと軽快に進んで行きます。
さすが、オブローダー!





南部新道

そして竹の道を進んだ先にあったのは、
平沼さんいわく、名前も由来も分からない謎の隧道跡。
随想の先は再び竹、竹、竹ですが、
なぜかのこ隧道だけは、なんの遜色もなく、
天井も壁面も極めて奇麗で、
今でも使われている現役のトンネルといってもおかしくないくらい。
おそらくこの付近は地下水が少なく、
そして鬱蒼と茂る竹の森が、
風雪から守っているのかもしれない。





廃道クエスト記念撮影

こうして3ヶ月に渡る撮影は終了。
最後に全員で記念撮影。左から
石井さん、オープロ山内、平沼さん、オープロ黒沢、オープロ大西、
そして最後の撮影で特別協力して頂いた小久保さん。

それぞれの廃道に関しては、
改めて年明けに一つ一つリポートしますが、
撮影してきた画像を見て思ったのは、
廃道は動画で見ないとダメ!ってこと。
DVDは2013年3月に発売予定なので、
是非、動画で廃道の魅力をご覧になって下さい。

廃道クエスト


足利鉱山

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前回アップした廃道の取材リポートの冒頭で取り上げた、
栃木県足利市にある越床峠の取材に行った際に、
次のロケ地へ移動しようとすると、四駆に乗ったヒップなおじさんが近づいて来た。
テンガロンハットにデニムの上下、ベルトはD&Gと、
栃木県足利市の山奥には不釣り合いな出で立ち。
おじさんとしばらく話しているうちに、
越床峠の横に広がる鉱山を見学させてくれる、という話になった。
ちょうど『産業遺産の記録』という本をお手伝いさせ頂いた時期でもあったので、
現役の鉱山を見てみようと思った。

足利鉱山

足利鉱山は珪石を露天掘りで採掘している鉱山。
広大に削り取られた珪石の山が印象に残る。





足利鉱山

その光景はさながら映画『未知との遭遇』の、
デビルズ・タワーとその奥に作られたコンタクトステーションのよう。
すりばち状に削り取られた低地には、
きっとマザーシップが着船できるにちがいない。
それはさておおき、
この鉱山はNHK大河ドラマ『太平記』の戦闘シーンにも使われたという。
画像中央の珪石が積まれた丘に陣地が作られ、
合戦シーンが撮影されたそうだ。





足利鉱山

敷地内には合戦シーンだけではなく、
他の美術的設備も作られたようで、こちらは現在でも残っている。
1991年のオンエアーなので、その後の年月で廃墟状態になったのかと思いきや、
当時、ほぼこの状態でセットが組まれていたという。
この木の感触等、美術スタッフの力量に感服。





足利鉱山

太平記の話はさておき、鉱山の施設を端から案内頂いた。
まず、最初の原石ポケット。
対象物がないので規模が分かりずらいが、
幅が5m位、中央に写る鎖の一つが30cmはあるだろうか。
鎖はかなり重量があるので、
その重さで大きな鉱石を選り分けるということだった。





足利鉱山

鎖の奥の穴の内側からの眺め。
多少傾斜がついているので、そのまま手前へ転がってくるのだが、
傾斜の床面にスリットが施されている所をみると、
今度は必要以上に小さな鉱石も、
このスロープで分別しているようだ。





足利鉱山

選別された鉱石はスロープから手前のポケットへ落ちる。
ポケットの奥には波板状のコンクリートがあるだけにみえるが、
これが前後に移動し、鉱石を細かく砕くクラッシャーということだった。
珪石を砕くのも結構たいへんなのか、
敷地内には、歯がだめになって使わなくなったクラッシャーが放置されていた。





足利鉱山

砕かれた鉱石はベルトコンベアーで運搬され、
次のクラッシャーにかけられてさらに細かくなる。





足利鉱山

粉砕の行程を3回ほど行なったら、
右端に写るサイロの様な構造のものに蓄えられるそうだが、
これでもう製品が完成。





足利鉱山

このサイロには製品になった珪石が蓄えられていて、
下からトラックに積んで出荷する。

そこには通洞や斜坑もなければ、選鉱も砕くだけで、
シックナーとか浮選機とかも全くない。
もちろん製錬等もない。
なんとシンプルな構造の鉱山だろうか。





足利鉱山

一通り鉱山施設を見学した後、
鉱山が一望出来る山へ案内して頂いた。
その全貌は地上で見ているより遥かに大きく感じる。
ちなみに、画像の右端に写るカーブする道路が、
越床峠の廃道。

頂いた名刺にはお名前しか無く、
鉱山関係の方だとは分かったが、とりあえず検索してみると、
なんと鉱山のオーナーの方だったようだ(汗)
貴重な体験をありがとうございました。

でもおかげでその日予定していたロケは、
半分しかできなかった。orz

廃道:越床峠〜後編

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

前回アップした、
栃木県の佐野市と足利市の堺にある越床峠。
その後編です。

地図をご覧になってもおわかりのように、
本来前回の探索で本来の越床峠は終わりですが、
廃墟探索の第一人者、平沼さんが一緒だったので、
それだけでは終わりません。

現在の地図では(最下部画像参照)、
V字型の道路しか描かれていませんが、
そのVの字のほぼ中央を横にシュートカットする、
明治時代に造られた道があるというのです。

古い地図を頼りに、
平沼さんがトライ&エラーで発見した、
知られざる道です。

廃道・越床峠旧道

と言っても道の素人の自分には、
この薮が道なのかどうかなど分かるわけもなく、
ただただ平沼さんの後を付いて行くばかりです。
平沼さんも最初は不安だったそうですが、





廃道・越床峠旧道

この画像の右に写る石垣を見た時に、
間違いなくかつて道だったと分かったそうです。
なるほど、これは自然の構造物じゃないですね。
とすると、この中央の窪みがかつての道。
しかし行く手を見ると、
倒木に阻まれた道は険しさを増してそうです。





廃道・越床峠旧道

幾重にも折り重なった倒木を、
時にまたぎ、時にくぐりながら進んだ先に、
明治時代に造られた手掘りの隧道の入口が、
姿を現わしました。

入口上部の岩がかなり崩落し、閉塞寸前の状態ですが、
それでもかろうじて隧道とわかります。

この隧道は「越所隧道」と言って、
明治のショートカット道を造った時に、
同時に掘削されたそうですが、
岩盤の脆さから早々に崩落し、
結局短い間しか使われなかったようです。





廃道・越床峠旧道

内部へ入って見ると、10cm程水が溜まっていて、
約20mくらいで崩落閉塞しているようです。

天井からは水滴が沢山したたり、
溜まった水に波紋を描いては、
水滴の音が隧道内に木霊します。





廃道・越床峠旧道

隧道の天井に白いものが付着してますが、
平沼さんいわく、おそらく凝固した石灰だろう、と。

それにしてもこの天井の凸凹には驚かされます。
勿論崩落による削れとかもあるんでしょうが、
鑿と鏨だけでの手掘りの跡でもあるのかと思うと、
よくこんな作業をしたなと、気が遠くなる想いです。

隧道内はとてもヒンヤリとしていて気持ちよく、
天井の崩落の危険を感じなければ、
もっと留まっていたい感じです。





廃道・越床峠旧道

ちなみに隧道というからには、
かつては反対側に出口があった筈ですが、
ちょうど反対側にあたる位置の付近を探索するも、
隧道の入口らしきものは見つかりませんでした。
ただ、ちょっと窪んだ土地があって、
その周囲が、上記の隧道の入口と似た岩なので、
この付近にあったのかも知れない、
程度のことしか判断出来ないと平沼さんはおっしゃってました。





廃道・越床峠旧道

明治の古道から戻り、
再び越床峠を出口へ向かって進んでいると、
長年の時間経過の結果、表面に苔がびっしりと生えた、
大量のタイヤが放置されていました。
おそらく産廃の一種だと思いますが、
ここまで同化していると、
「人工はやがて自然へ還る」的なメッセージを持った、
現代美術の作品の様にも思えます。





廃道・越床峠旧道

タイヤのオブジェを越えると、
ほどなくして現道へ出ます。
現道の越床トンネルはわずか500m程度。
車で通過すればほんの一瞬、
歩いても10分とかかりません。
その横に、これだけ面白いものが眠っているとは、
この峠を知らなければ気がつかないと思います。





廃道・越床峠旧道

越床峠はとても気に入ったので、
その後2回通って撮影、
夜中の星降るインターバル撮影もしましたが、
そのシーンはDVDの最後のクレジットで使っています。

オリオン座が消えて、やがて月が昇り、
そして夜明けになって画面が真っ白になるまで、
車一台通らないアスファルトの道路は、
神秘的でもありました。

越床峠はこれでおしまいですが、
越床峠の最初の撮影の後に、
近くに面白い隧道があると平沼さんからうかがったので、
そこへ行ってみることにしました。
次回はその面白い隧道です。



廃道・越床峠旧道

廃道クエスト




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廃道:須花隧道

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

前回の記事の最後にお伝えした、
越床峠の取材の後に回った面白いトンネル。
それは、越床峠から北へ7、8キロ行った所にある、
須花トンネルです。

廃道・須花隧道

このトンネルも越床峠と同様、
足利市(左)と佐野市の境にあります。
県道208号線沿いに書かれているのが現役の須花トンネル。
そして北側に細い道と共に書かれているのが、
大正時代に建設された須花トンネル。
更に、現在のウェブ地図とかでは書かれていない、
南側に残る明治時代に造られたトンネルと、
時代をまたいで3つのトンネルが残る、
珍しい場所です。

廃道・須花隧道

まずは現役のトンネル。佐野市側の入口。
昭和55年(1980)に完成したRC造のトンネルで、全長約160m。
撮影のタイミングによる光のあたり具合もあると思いますが、
殆ど車が通行しない様子と相まって、
ちょっと異世界な印象を受けます。





廃道・須花隧道

次に明治時代の隧道跡を見ようと、
看板に従って側道へ入ります。
明治の隧道は佐野市の指定史跡になっているので、
見学が出来る様に案内板が設置されています。
路面は舗装されていますが、近年の整備でしょうか。
路肩に三角形の排水溝(だと思います)があります。
長崎県の高島にある三角溝は有名ですが、
こんなところで三角溝に出会うとは、
ちょっと驚きです。





廃道・須花隧道

暫く進むと、やがて立ちはだかる岩山の下を貫通する、
明治時代の須花隧道が見えて来ます。
隧道が造られる以前、この場所を通過するには、
険しい須花峠を越えなくてはならず、
その不便さを解消するべく造られた隧道だそうです。
明治14年(1881)に工事が始められるも、
手掘りでの掘削には思いのほか時間と資金がかかり、
最後には私財をなげうってまでして、
明治22年(1889)にやっと完成した隧道。





廃道・須花隧道

隧道内の壁面は激しく凸凹で、
決して奇麗とは言えないものですが、
それがかえって隧道掘削の苦労を伝えてくれます。
また崩落が殆どなく、
前回の記事でアップした越床峠の明治隧道に比べて、
この隧道の岩盤が強固なものだったことが分かりますが、
その分、掘削にも苦労したんではないかと思います。





廃道・須花隧道

足利市側の出口は、枯れ葉や土砂で埋没寸前。
もう少ししたら、閉塞してしまうかもしれません。
隧道の先はもはやどこに道があったのかすら、
わからない状態でした。





廃道・須花隧道

佐野市側の入口へ戻りながらの1枚。
隧道のシルエットが、
現代では考えられない形をしているのがよくわかります。





廃道・須花隧道

明治隧道の次は、
現道を挟んで反対側にある大正隧道へ移動。
明治隧道は現道からそこそこ距離がありますが、
大正隧道はほどなくして姿を現します。

明治隧道へ通じる道と隧道周囲の雰囲気も良かったですが、
この大正隧道の周囲の雰囲気ももまた、
そこはかとなくいい雰囲気を醸し出しています。





廃道・須花隧道

大正6年(1917)完成の須花隧道。
こちらは入口を石造りでかため、内部は煉瓦造りという、
明治隧道に比べると破格に進歩した隧道です。
きっと、この隧道が完成した時は、
この道を利用する人は喜んだんではないでしょうか。





廃道・須花隧道

煉瓦巻きの隧道は、
軍事施設とかではよく見かけますが、
一般道の隧道では初めて見たので、
これまた驚きです。

ところで、明治道の佐野市側(右)の入口は、
地図でいうと現道をはさんで大正道のほぼ対面にあり、
そこからかなり南へ進んで隧道を越え、
やがて、地図の左下の、
つずら折りの頂点の場所へと繋げています。

等高線を見てもわかる通り、
大正隧道は現道より楽な場所を貫通している反面、
明治隧道は、現道よりも険しい場所をぶち抜いています。

現代の様な掘削技術が無い時代に、
よくこの険しさに挑戦したものだと思います。
明治の人にとって、峠越えとは、
そんなにやっかいなものだったのかと思いますが、
前回の記事でアップした越床峠の明治道も、
やはりぐるっと迂回する峠を避けて、
ショートカットする場所に造られていました。

ともあれ、素彫り、煉瓦造、RC造と
三世代の隧道が併存して、
隧道の歴史を博物館の様に伝える様は、
とても楽しめます。

尚、須花隧道は、
今回のDVDには収録していませんが、
いずれ機会があったら収録出来ればと思います。



森田屋総本店

この日の撮影は午前10頃スタート、
越床峠と須花隧道を撮影し終えたのが4時頃。
まだ時間があったので、
せっかく佐野市に来ているし、
本場の佐野ラーメンを食べてから帰ることに。
立ち寄ったのは森田屋総本店

森田屋総本店

カップ麺とかでは食べたことがあるものの、
本場で食べるのは初めての佐野ラ〜メン。
ワンタンの皮のような食感と味の麺、
シンプルな醤油ベースのスープ、
そして懐かしさを感じるチャーシュー。
素朴ながらとても美味ラ〜メンでした。





東北自動車道

9月だったので日も長く、
帰りの東北自動車道は茜色に染まっていました。



廃道クエスト




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廃道:萬世大路〜前編

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そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

廃道の中では超有名物件(だそうです)の萬世大路。
明治時代に、
山形の米沢から福島の福島へ、そして福島から東京へと、
不便だった裏日本の産業発展の為に造られた道路。
当時山形の県令(知事)だった三島通庸によって建設され、
落成時に訪れた明治天皇によって命名された道路だそうです。
と基礎知識はこのぐらいにして、

廃道・萬世大路

実は右下の福島と左上の米沢を結ぶ国道13号が、
現在も萬世大路の名で呼ばれています。

実際、開通当時のルートと付かず離れず、
かなり同じルートを進んでいるのですが、
二ヶ所だけ大きくルートが違う所があります。

一ヶ所は福島を出て北に向かって膨らんでる場所。
当時はここまで膨らまずに一直線で進んでいました。
そしてもう一カ所は、地図中央に表記された栗子山付近。
現在のルートは栗子山の南をV字型に進んでいますが、
当時は逆に北に少し膨らむ様に進んでいました。

廃道・萬世大路

まず福島を出て一直線に進んでいた道路を体感すべく、
藍亀神社、通称塩竈神社へ。
勿論、この神社の訪問は平沼さんのご提案で、
私たちは何故そこへ行くのかもわからず、
ただただ付いて行くばかりです。
階段の下に天然木の杖が用意されていますが、
結構階段がきつい神社です。

廃道・萬世大路

そして神社の拝殿があるスペースから福島市を見ると、
なんと一直線の道が奇麗にみえます!
福島市をでて一直線に進んでいたかつての萬世大路は、
現在でも現道として残っているんですね。
平沼さん曰く、
明治時代にこれだけの土木工事をしていることから、
この萬世大路の重要性がよくわかる、と。
また、直接廃道になった道へ行く前に、
こうして萬世大路の素晴らしさを体感してから、
実際に廃道へ行くと、
より萬世大路の素晴らしさが分かる、のだそうです。
なるほど、なるほど。





廃道・萬世大路

藍亀神社をでてほどなくすると、
かつての萬世大路は現道をほぼ同じルートを進み出しますが、
それでも完全に同じではなく、
かつてのルートは現道から僅かにずれていた所も多く、
それらは画像の様な形で現在も残っています。

眼下に見える橋脚の跡がかつての萬世大路。
現道は相当高い位置を走っていることになります。

そして冒頭で触れた二カ所の大きくルートが違う所、
程はルートがずれていないながら、
現道と少しルートを異にする大滝宿/長老沢へ。
ほかにもルートがずれている所はそこかしこにありますが、
特にこの大滝を訪れるのにはわけがありました。

廃道・萬世大路

集落の入口にあたる場所に掛かる葭澤橋(よしざわばし)。
大滝の集落は、かつては萬世大路とともに栄えるも、
昭和40年代に過疎化が進み、昭和54年(1979)に廃村。
その後、業者による江戸時代風のテーマパークとして、
再生が試みられた時期もあったものの、
現在はその多くが撤退し、再び廃村となっています。
この鉄の朱塗りの欄干も、
おそらく業者時代に作り替えられたものでしょう。





廃道・萬世大路

橋を渡ると、既に店じまいした、
江戸茶屋風の店が軒を連ねます。
その中に、
廃道になった萬世大路の見学を促す案内板がありました。





廃道・萬世大路

果たしてこの集落にどれほどの人が訪れ、
萬世大路を見学に出かけていたのかは分かりませんが、
今はただ無人の静かな山村に残るあばら屋が、
かつての賑わいの跡を今に伝えるだけです。





廃道・萬世大路

あばら屋の向かいに山神神社と掘られた石柱がありました。
山神といえば炭鉱・鉱山の神様。
そういえば萬世大路の案内板のあった裏に、
坑道の跡らしき形をした横穴があったのを思い出します。





廃道・萬世大路

中に置かれた一輪車の大きさからも分かる通り、
それほど大きな坑道ではありませんが、
周囲の支柱の構造等、鉱山の通洞坑にそっくりです。
実は大滝には鉱山もあったそうです。





廃道・萬世大路

集落内には小さな川を渡る橋が幾つもありますが、
そのうちの一つ、いら沢橋。
上記の赤い欄干の橋も、
かつてはこういった素朴な橋だったんではないでしょうか。





廃道・萬世大路

いら沢橋を越えて暫く進むと、
長老沢の集落へ辿り着きます。
トタン屋根の腐食具合だけ見ると、
まだ人が住んでいてもおかしくないくらいですが、
どの家屋にも既に人影はありません。





廃道・萬世大路

そしてその一番奥に、
かつて萬世大路が竣工した際に巡幸された明治天皇が、
お休みになられた家屋があります。
しかも、お休みになられた当時の家屋だそうです。





廃道・萬世大路

平沼さんの話では、時々手入れが施されている、
ということでしたが、
明治天皇が訪れたのは、萬世大路竣工の明治14年(1881)。
木造の家屋が約130年も残っているのは驚きです。



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廃道:萬世大路〜中編

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そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

廃道・萬世大路

前回アップした大滝宿/長老沢から現道に戻り、
少し米沢方面へ進んだところに、
かつての遺構が幾つか残っている場所があります。
全体地図はクリックでご確認ください。
その場所の地図があまりにもシンプルすぎたので、
今回の記事に関連するアイテムを記入してみました。
まず一番下の道が現道の万世大路、
その上のゆるやかなカーブが一つ前の世代の万世大路、
更に沢に沿って北へ大きく迂回しているのが、
明治時代に使われていた万世大路のルートです。

なお進入路の都合上、
左寄りの3つの道が交わった付近から、
右へ戻る形で撮影を行いました。





廃道・萬世大路

まずは矢印で指し示した「警察官殉職之碑」
表には太い文字で殉職之碑の文字が掘られていますが、
裏を見るとその経緯が克明に記録されています。
明治22年に囚人を護送した警察官が、
その帰りに吹雪に遇い、
あえなく命を落としてしまったことを追悼し、
たてられた鎮魂碑です。

撮影の日は紅葉が美しい穏やかな天気でしたが、
この地域に降る雪がどれだけ強烈なものかを実感できます。





廃道・萬世大路

地図でいうと殉職之碑から少し右に移動した新沢橋。
かつての萬世大路の現存遺構では、最大の橋だそうで、
東京/御茶ノ水にある聖橋にも似た美しいアーチ橋です。

そしてこの橋を渡ると、
明治時代に使われていたルートと交わります。
明治時代にはこの新沢橋はなく、
沢を挟んで北の奥まで道が続いていました。





廃道・萬世大路

明治時代の道も、道と分かる形で現存しています。
右側の岩が道の為に削岩した跡。
そして中央の多少平場に見える所が道の跡です。
ところどころ道の中央まで木が繁殖しているものの、
通行に支障をきたす程ではなく、
明治時代に馬車や着物姿の人が往来した、
その道を歩くのは感動を覚えます。





廃道・萬世大路

そして暫く明治道を進むと、
やがて明治時代に沢を渡っていた旧新沢橋に辿り着きます。
といっても新沢橋のように橋桁はありませんが、
それでも橋脚はしっかりと残っています。
今回の取材のために、
前もって平沼さんから画像データはもらっていましたが、
小さな橋脚だろうと勝手な思い込みに反して、
実際に見る旧新沢橋の橋脚はかなり大きく、
目算ですが8m位の高さがあります。

平沼さん曰く、
萬世大路の中で、明治時代にだけ使われた道が、
もっとも長い区間残っている所だそうです。



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廃道:萬世大路〜後編

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そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

前編、中編とアップしてきた萬世大路。
その道程でもっとも旧道と現道のルートが異なるのが、
栗子山を越えるルートです。

廃道・萬世大路

地図で言うと、
右側の国道13号マークから少し西へ移動した地点と、
米沢スキー場と書かれた辺りを、
現道はV字型に通っていますが、
かつての萬世大路は、
ほぼ直線で結ぶ様に造られていました。

そしてその最も標高の高い所にあったのが、
国内初の近代隧道であり当時国内最長だった、
栗子山の中腹を貫通する栗子隧道です。
その隧道を目指して、
本来右の国道13号マークの付近から旧道に入る予定でしたが、
あいにく旧道への進入路付近が工事中だったため、
急遽米沢側から旧道に進入し、
隧道へアプローチすることにしました。





廃道・萬世大路

かつての萬世大路は、舗装こそされていないものの、
かなり高い標高まで、ちゃんと道としての機能を残しています。
しかも轍があるのを見ると、車の走行もあるようですね。
と言っても現役の車道ではないので、
ほどなく道幅が狭くなり、車での走行はできなくなり、
途中からは徒歩で栗子隧道を目指します。





廃道・萬世大路

徒歩で隧道を目指す途中の林の切れ目から、
栗子山を抱く奥羽山脈が見えます。

平沼さん曰く、
国内に隧道あまたあれど、
分水嶺を貫通するトンネルは少なく、
しかもそれが明治中期に造られたことは、
とても驚くべき事だそうです。
今回平沼さんと3ヶ月に渡って
いろいろな廃道を撮影して来ましたが、
その中で平沼さんが最も興奮していたのが、
この光景を目にした時でした。





廃道・萬世大路

だんだんと細くなる萬世大路を歩くこと小一時間。
遂に栗子隧道が薮のむこうに見えて来ました。





廃道・萬世大路

目の前に来ると、
昭和の隧道(左)と明治の隧道の、
2つの入口がある異様な光景に圧倒されます。





廃道・萬世大路

昭和の隧道の上には、今も扁額が残っています。
当時の有力者による書でしょうか、
バランスも悪く決して上手とは言えませんが、
その筆致から、隧道への強い想いは伝わります。
下には昭和十年三月竣工と彫られています。





廃道・萬世大路

平沼さんの提案で、隧道の上へ登ってみました。
間近でみる隧道入口の表面は、
あたかも古代遺跡の壁面の様相ですが、
実はこれ、石ではなくブロック・コンクリートだそうです。
長年の風雪にこれだけ変質してしまったということでした。





廃道・萬世大路

隧道の上からの光景。
手前が広くなっていますが、
かつて明治時代に隧道が竣工した際には、
この広場に明治天皇も陣取って、
その落成を祝ったそうです。





廃道・萬世大路

陽が沈み、あたりには夕闇が迫り出しましたが、
せっかくなので隧道内も少し探索。
まずは明治隧道から。
隧道は20〜30m程進むと行き止まりになります。
行き止まり付近から入口方向を見た光景。
地面に積もる瓦礫は、崩落というよりは、
むしろ昭和隧道を掘削した時の不容石ではないでしょうか。
というのも、明治隧道の突き当たりは、
崩落や人工に閉塞したものではなく、
昭和隧道の外壁によって行き止まりになっているからです。





廃道・萬世大路

左に見えるのが昭和隧道の外壁。
明治隧道は入口から数十メートルだけクランク状に造られ、
あとは一直線の隧道でしたが、
昭和の隧道はその殆どを再利用しながら、
入口部分をクランク状にせず、
そのまま直線状に造った為に、
明治隧道の中に昭和隧道の外壁が現れ、
こういった極めて奇妙な光景が生まれたわけです。

明治隧道が何故入口部分をクランク状にしたかは、
定説としては、猛吹雪の隧道内への進入回避だそうですが、
前回の記事の殉職之碑のところで触れた様に、
やはりこの道路にとって雪との戦いは、
過酷なものだったんだと思います。





廃道・萬世大路

そしてこちらが昭和隧道の入口から数十メートル付近。
この付近だけ天井が崩落し、瓦礫が積もっていますが、
その奥は、見える限り、崩落の様子もなく、
現役でも使えそうな程奇麗な状態でした。
ただし、平沼さんにうかがうと、
かなり奥で大きな崩落があり、
福島側へ抜ける事は殆ど無理な状態だという事でした。





廃道・萬世大路

天井の崩落部分を見ると、
なんと剝落したコンクリートの中に、
木柱状のものがいくつも見えます。
かつては木柱を補強材として使っていたのでしょうか?





廃道・萬世大路

DVD『廃道クエスト』は、廃道の魅力を
<美しさ><奇妙さ><歴史性><冒険性>
の4つに分けてまとめています。
廃道リポートの最初にアップした越床峠は<美しい>廃道、
そしてこの萬世大路は<歴史性>のある廃道です。
DVDの順番では3番目に収録してますが、
実際は越床峠の次に訪れた廃道。
少し、廃道の魅力がわかって来た頃です。



廃道クエスト




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廃道:国道299号旧道と旧大滑隧道

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SA

画像は前回までアップした、
萬世大路の撮影に行く前に車中泊したサービスエリア。
撮影が関東近郊だったので、
当初は早朝出発で行ってましたが、
だんだん日が短くなるにつれ、
それでは撮影時間が足らないということになり、
結局、萬世大路以降何度か、
現地付近で車中泊になりました。

午前3時頃、
サービスエリアに出入りする大型トラックを肴に、
手持ちのワインを飲みながら眠りにつくのも、またいいもの。
廃道探索は、
この車中泊から始まっているのかもしれないと思います。

廃道・国道299号旧道

萬世大路の次に撮影したのは、
奥秩父にある国道299号旧道の廃道でした。
廃道の世界では殆ど知名度もなく、
それほど重要でもないといわれる廃道ですが、
以前の記事でお伝えしたように、
今回廃道のDVDを制作するきっかけが、
この国道299号の旧道だったので、
どうしてもはずすわけにはいきませんでした。

地図でいうと現道の国道299号が、
2カ所で川を渡っていますが、それを渡らずに、
川沿いに北へ膨らんでやがて現道と合流する、
ほんの短い区間の廃道です。

廃道・国道299号旧道

画像は全行程の1/3くらいのところでしょうか。
左に見える岩肌はそそり立つ谷。
かなり深いんですが、
この画像だけではその規模がわかりませんね。

廃道・国道299号旧道

画像の右上の枠に囲んだ所に注目して下さい。
人影が見えると思いますが、

廃道・国道299号旧道

遥か先を歩く平沼さんです。
をいをい、道かよー (((;゜ Д ゜)))
もちろんズルッといったら奈落。
でも、まだここは歩き易い方でした。





廃道・国道299号旧道

その行程で2カ所、
崖崩れで完全に道が無くなっている所があります。
最初の崖崩れはなんとか越えましたが、
画像は2番目の崖崩れ。
手前に写るのが崖を越える平沼さん、
で奥に、反対側から先回りしていたオープロの二人。
この崖崩れは、足場は砂利でずるずる、
つかむ所もなにもなく、
平沼さんは一気に走り抜けてましたが、私は断念。

廃道が与える過酷な試練
でも、これは画像では伝わりませんね。
是非、映像でご覧になってくださいませ。



日窒鉱山

国道299号旧道は、距離は短いので、
2時間ほどで撮影を終え、
奥秩父経由で平沼さんお薦めの隧道へ行く事に。
途中、道沿いにあった日窒鉱山で、
ちょっと一休み。



廃道・大滑隧道

お薦めの廃隧道は、
奥秩父の南寄り、県道210号沿いにあります。
大滑トンネルという現役のトンネルの、
南側の出口付近が少し洞門状態になっているのですが、
その洞門の所から川沿いに短い廃道があります。





廃道・大滑隧道

道幅もそこそこあり、
ガードレールも新しめな印象をうけるので、
近年まで使われていた道なのではないかと思います。
そして画像の中央奥、
左側の崖が堆積した葉とともに斜めになっている位置で、
道は急カーブして左折していたようです。





廃道・大滑隧道

左折ポイントから先を見た光景。
一見、ただの山肌で、
この正面に隧道があると平沼さんに言われても、
最初は全くわかりません。
近づいて見ると、
左からせり出している岩肌が中央上部で途切れる付近に、
確かに人一人がやっと這い入れる隙間があります。
これまでアップして来た越所隧道や須花隧道も、
けっこう入口が狭くなっていましたが、
その中では、最も入口が狭い隧道でした。

なんとか隧道内に入ると、
暫くは崩落でほぼ埋まりそうになっている区間が続き、
やがてそれが終わると、
今度はぬかるんだ地面に足を取られる区間、
そして入口から約100m位の所に、





廃道・大滑隧道

なんと廃トラックが一台ポツン…
しかもトラックの後ろ半分は、
崩落した土砂に埋没していて、
その奥は完全に崩落し、隧道は閉塞しています。

果たしてこのトラックは、
どうやってこの隧道に入ったのでしょうか。
当然Uターンはできないから、
崩落した奥から崩落前に走って来て、
たまたま停めたところで崩落したのか、
それとも最初に入った閉塞寸前の入口が、
まだ閉塞していないときに進入し、
わざわざバックしてここまで来たのか。

謎です………

尚、この大滑隧道は、当初DVDに収録予定でしたが、
時間の都合上カットしてしまいました。
もし次回続編を作る事になったら、
是非収録したいと思います。

殆ど真っ暗な隧道なので、
撮影では赤外線暗視カメラでも撮影しています。
いわゆる緑色の画面のアレですな。



廃道クエスト




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廃道:うわごう道と茶平集落

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そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

前回アップした国道299号旧道と旧大滑隧道は、
それぞれ規模が小さい物件だったので、
ともに撮影はほどなく終了し、
当初から予定していたもうひとつの物件へ移動しました。
もうひとつの物件とは廃村とその中の道です。

うわごう道と茶平集落

秩父の南に水をたたえる浦山ダムの南端から、
少し入った所にある茶平集落です。
現行のウェブ地図にも建物の形が表示されますが、
実際には既に廃村となっています。
この付近の多くの集落はダム建設で、
湖底に水没したそうですが、
高台の山の中にあった幾つかの集落は水没をまぬがれ、
存続したそうです。
茶平集落はその中のひとつ。





うわごう道と茶平集落

浦山ダム沿いにしばらく南下すると、
まるで映画のセットのようなトンネルの坑門が現れます。
寄国土と書いて「ゆすくど」と読むトンネルです。
最初は龍かとも思いますが、獅子ですね。
ともあれ獅子の体内へ入って行った先にある廃村です。
劇的な演出効果です。





うわごう道と茶平集落

地図の三叉路になっている所から北へ進みます。
この付近は舗装されていますが、
ほどなく自然土の道にかわります。





うわごう道と茶平集落

小川にかけられた木橋。
竹製の欄干と草が繁茂した路面。
とてもいい雰囲気です。





うわごう道と茶平集落

家は正確には数えませんでしたが
(数えようと思えば数えられる規模)
十数軒の家は、おおまかにいって、
古めのものと新しめのものの2タイプがあるようです。
こうして古いタイプの家が立つ光景を木立越しに見ると、
昭和を越えて、
もっと古い時代にタイムスリップした印象すら受けます。





うわごう道と茶平集落

土壁に木製の引戸や窓枠、
紅葉が悠久の時間を越えた木造家屋とマッチして、
日本の原風景を演出します。





うわごう道と茶平集落

天井は勿論、細かいさんの引戸も壁も、
みんないい色になった木製。
家具調テレビもこういう部屋ならバッチリですね。
床は板張りになってしまってますが、
猫がまどろむ飴色の畳がとても似合いそうです。





うわごう道と茶平集落

この物干し(たぶん)は相当年季が入っています。
使い方もよくわかりませんが、
そこはかとなく木の壁と良く合います。





うわごう道と茶平集落


手前は物置とかでしょうか?
ちょっと傾いてしまってますが、
その奥に立つ母屋は古めながら、
時代を感じさせてくれる趣のある木造家屋です。





うわごう道と茶平集落

かつて住人の方がお使いになっていた時は、
手前にちゃんと壁があったのだと思いますが、
壁がなくなってしまったので、
お風呂と厠がまるみえです。
お風呂は五右衛門風呂をコンクリで固めたもの。
左奥に写る木を張り合わせた丸い蓋状のものは、
五右衛門風呂用の足乗せでしょうか。





うわごう道と茶平集落

回転式脱水機付き一槽洗濯機。
その上にはこし網籠。
時間が止まった光景です。





うわごう道と茶平集落

こちらのお宅も趣のある木造。
古めの家はおおむね二階を低く造ってあるので、
かなり古い時代のものではないかと思います。





うわごう道と茶平集落

こちらのお宅は五右衛門風呂ではなく檜風呂。
でも土台が作ってあるところをみると、
離れの風呂部屋の造り。
幼少の頃、
離れの風呂小屋にある五右衛門風呂を経験したことがありますが、
子供にとっては、ちょっと怖い思い出ですね。





うわごう道と茶平集落

集落を離れて、
北上しながら次の集落へ行こうと思いましたが、
日も傾き始めたので、
集落を見下ろす高台にあるお地蔵様のところで、
撮影を終了することに。

ここからうわごう道と呼ばれる古道が、
途切れ途切れながら、
一応この丘の上にある集落を繋いでいるようですが、
他の集落はまた別の機会に訪れようと思います。

当初、廃村の古道もDVDに収録する予定でしたが、
廃村は廃村で、また純粋な廃道とは意味が違うなと感じ、
今回のDVDに収録するのはやめました。
※っていうか、道、歩いてないじゃん(^.^ゞ)

勿論、平沼さんも一緒でしたが、
この廃村と古道は初めての訪問で、
特にこのお地蔵さんに感動してたのが、
印象にのこっています。

うわごう道と茶平集落

そしてオープロジェクト恒例、
ご当地ものを食べて帰ろう!です。
今回はグルメであるオープロ大西さんお薦めの、
蕎麦 いんなみ
お店のお薦め、天せいろを注文。
特に印象深く残るほどではないですが、
美味しい蕎麦と天ぷらに満足。
※探索でお腹空いてたのかな。。。



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


廃道:高長切川隧道

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

シリーズでアップして来た廃道撮影リポも、
もう最後の撮影日になります。

高長切川隧道

最後の撮影は冬の寒さも沁みる12月の中旬。
富士山の西に位置する身延町にある、
奇妙な構造をもった隧道からスタートしました。
相変わらずウェブ地図には旧道は書かれていないので、
勝手に記入しちゃってますが、
クリックするとGoogle Mapへ飛べます。





高長切川隧道

地図の中央にあるのが角瀬トンネル。
その東側の入口近くに、
誰が見ても旧道だな、とすぐに分かる道があります。





高長切川隧道

歩く事数分、前方に目的地の隧道が見えて来ます。
が、その手前が、以前にアップした
国道299号旧道ほどではありませんが、プチ崖崩れ。
平沼さんが前に探索した時は崩れてなかったというので、
最近のものかと思いますが、
結構土砂が固まり、その上にサラサラの砂利、
というセットは、いつも心地よくありません。





高長切川隧道

とりあえず距離は短いので、
あっさり越えてから振り返って見ると、
曲がったガードレールは、
土砂で押し流されつつあるんですね。





高長切川隧道

早速隧道内へ。
この隧道が奇妙な構造というのは、
まず結構広い入口の先にある急に狭くなる構造。
いくらなんでも狭くし過ぎ、
というか手前が後付けだから、
手前を広く造り過ぎだろー。
で、狭くなってる所はコンクリート壁なのに、
すぐその奥が素堀りのまんまの壁面。
さらに奥に小さな灯りが見えるけど、





高長切川隧道

ほぼトンネル状態になった洞門。
そしてその先はまた素堀りで、
最後にコンクリートの壁面で出口へ、という、
短い距離の間に、
その姿をころころと変える隧道でした。
最初の隧道が高長隧道、後半のが切川隧道、
その間をほぼ隧道状の洞門がつないで、
途中に窓がある一つのトンネルのように見える二つの、
ということでした。





高長切川隧道

何故そんなことになったかは、
ここで説明していると長くなるし、
平沼さんのサイト『山さ行がねが』をご覧になっている方なら、
既にご存知かと思いますが、
DVD本編をご覧になって下さいませ。
そのかわり、撮影しておきながら、
時間の都合上収録出来なかった話をひとつ。





高長切川隧道

とその前に、隧道口にあった、
天然オブジェを一つ。





高長切川隧道

さらに隧道の近くにあった、
人工オブジェもひとつ。
これは現役の石細工屋さんが、
貯水タンク(たぶん)として、
再利用しているオブジェのようです。





高長切川隧道

地図で言うと旧道を東から歩いて、
2つの隧道を越え、
県道37号線を渡って白い道を南へ移動している所です。
平沼さんいわく、
隧道があった旧道はこの南下する道に通じていて、
かつては橋を渡っていたということです。
橋の真ん中だけ、古い構造が残っていますが、
その近くに行って見ると。





高長切川隧道

新しい橋と古い橋のつなぎ目から、
なんと軌道の跡が顔を見せているではないですか!
またまた平沼さん曰く、
この旧道はかつて馬車軌道として使われていたこともあり、
その痕跡がかろうじて残っているのではないか、と。

馬車電車、一度乗ってみたい。。。
人車と同じ位、一度乗ってみた。。。

廃道に歴史あり。。。

本日『廃道クエスト』発売です!↓



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


廃道:下山隧道と南部新道

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

シリーズでアップして来た廃道撮影リポ、
最後の撮影日の後半です。

最後の撮影には、
かねてから平沼さんにご紹介頂いていた、
女性廃道探索者の石井あつこさんにもご参加頂き、
石井さん推薦の隧道を見学にも行きました。

下山隧道

前回アップした高長切川隧道から
ほど近い場所にある下山隧道です。
旧道は富士川沿いの国道52号線から
少し入ったところにあります。
この物件は、ウェブとかでの情報をまったくなしで、
現場で石井さんが発見した隧道なので、
石井さんの思い入れはひとしおだそうです。





下山隧道

まずは南側からのアプローチ。
本来現道とほぼ同じレベルだった筈の道に、
土砂、あるいは工事用残土の堆積物などがつもり、
道はみえず、隧道へのアプローチも、
かなり斜面を登るかたちになります。
そしてほどなく登りきると、
眼下に目標の下山隧道が見えて来ます。

この隧道、ご覧の様に、
トンネルの大きさに比べて、
扁額がかなり大きく造られています。





下山隧道

実際現場でおおよその大きさを測ってみると、
横幅が約4メートル、高さが約1.8メートルもあります。
つまり扁額の中に、立った人が横並びできるサイズ
といえばその大きさが実感できると思います。

栗子隧道の扁額の書に比べて、
こちらの書はかなり気合いの入った一筆です。

ちなみに何故これほど大きな扁額にしたかは不明なものの、
この別途化粧石等で造った扁額の埋め込ではなく、
入口上部のコンクリートに凹凸をつけることで造られた扁額のため、
これだけの大きさが実現したということです。
確かにこの大きさの扁額を別に造って、
この位置につり上げてはめ込むのは、
容易なことではないですね。





下山隧道

一旦現道へ戻って、今度は北側からアプローチです。
南側は隧道の目の前まで行けますが、
北側は隧道の手前の谷に橋等がなく、
谷に降りてどこからか登らない限り、
隧道の入口へは辿り着けません。
ただ、谷幅はそれほど広くないので、
対岸からでも十分その様子がわかります。

南側同様、巨大な扁額にはかわりありませんが、
書体が違います。
南側に比べると少し堅い印象をうけるので、
もしかしたらこちらが先に書いたものかもしれません。

谷が手前にあることから、
当然橋がなくなったと考えがちですが、
それにしては橋台も橋脚もなく、
また断面の様子もなんとなく妙です。
橋と言うよりは、
土地自体が無くなってしまった様な印象です。

後日平沼さんが現役当時の写真を持って来ました。
それを見ると、トンネルを出た付近は、
橋ではなく殆ど土地状の形をしています。
ただし下には細流があるので、
殆ど土地の様に造って、
その下部に水流の抜け道を造った
暗渠だったということがわかりました。



最後の撮影は、下山隧道からほどなく南下した、
身延町とその南の南部町を結ぶ、
南部新道の旧道でした。

南部新道

もともとこの付近の街道は、
富士川沿いに造られていたもの、
氾濫川として知られる富士川に浸食され、
幾度も決壊崩壊したそうです。
その経験から、
現在の国道52号は内陸に造られているわけですが、
かつての富士川沿いにあった南部新道は、
現在でもかろうじてその痕跡を残しています。





南部新道

この廃道探索は、平沼さんからの提案で、
当日いくことになった廃道なので、
案内は全ておまかせ。
なのでどのあたりから旧道へ入ったのかなど、
殆ど覚えてませんが、
廃道に入るなり、猛烈な竹薮の連続です。
しかも密度がかなり濃く、
また半分くらいの竹が寿命尽きて倒れているので、
それらをくぐったりしながら進まなくてはなりません。





南部新道

猛烈な竹薮を歩くこと小一時間、
急に視界が開けた先にあったのが、
この扁額も竣工年表示などもなにもない、
謎の廃道です。
平沼さん曰く、
恐らく戦中に軍事物資の輸送目的で造られたものだと思うも、
その実体はまだ調査中とのこと。

こんな山の中に、
何十年も使われていないにもかかわらず、
崩落はおろかヒビすら入っていない、
奇麗な隧道が眠っているとは驚きです。
※実際はすぐ近くに富士川が流れていたり、
隧道の反対側の斜面の上には民家があるなどしますが、
何と言っても竹薮が深すぎて、
印象としては山の中としか思えません。





南部新道

一旦現道に戻り、少し移動してから、
再び次の目標に向かって竹の薮漕ぎです。
地図で言うと下方の黒い星の付近ですが、
こちらも平沼さんに連れて行かれるままなので、
なにがあるのかは分からない状態での探索です。

南部新道の探索でも、
石井あつこさんが参加されていましたが、
とにかく平沼さんと石井さんは、
進むのが早くて追いつきません。
その様子はDVD本編に収録してあります。
そして歩く事約30分位、





南部新道

行き着いた所にあったのはかつての道標です。
何と書かれているかを判別すべく、
この場所に30分位いました。
画像をクリックすると、
文字を強調して分かり易くした拡大画像が表示されます。

上の二文字は左と右。
そして左の下は「身延山道」でその右は
「舟道」だそうです。
「身延山道」の下がなかなか読めませんでしたが、
左が「あはめし」(粟飯)、右が「さくら志ミつ」(桜清水)
という字ではないかと判断し、
一番下が「霊場あり」となります。

身延町には日蓮宗の総本山久遠寺があり、
付近には日蓮ゆかりの霊場がたくさんあります。
「粟飯」とは道端で休息をとっていた日蓮に、
粟飯を差し出したのが縁で出家した母を偲んで、
その息子が建てた大石山正慶寺のこと。
また「桜清水」とは、正慶寺より少し南の高台にある、
横根という集落が水の便がわるかったので、
桜の木の根方に杖を突きさし清水を沸き上がらせた伝説から
桜清水の霊場となった玉林山実教寺のこと。

つまりこの道しるべは、
日蓮ゆかりの霊場参りのための道標だったのですね。

道しるべが石造りだったからこそ、
こうして悠久の時を越えて、
この道を通行したかつての人たちのことがわかります。
もしこの道標が近年の鉄板やプラスチック製だったら、
こうして残っている事もなく、
その道がなんのための道かも、
知ることは出来なかったと思います。

残念ながらこの道しるべは、
本編には収録していないので、
ここで詳しくアップしました。



こうしてDVD『廃道クエスト』のロケは終了しました。
しかし廃道は廃墟のように分かり易い形がなく、
画像ではただの山道にしか見えない場所も多々あります。
また、以前にアップした国道299号の崖崩れなども、
画像ではその様子がまったく伝わりませんが、
映像では画像よりははるかに臨場感があります。
廃道は映像で見て、
初めてその面白さや状態がわかると思うので、
このブログの記事は予習程度にさらっと流して頂き、
是非DVD『廃道クエスト』をご覧になって頂ければと思います。



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


廃道:足尾小滝の廃道

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

前回で平沼さん、石井さんと共に撮影した、
メインのは廃道のリポートは終わりですが、
昨年の9月から12月の撮影期間中、
オープロジェクト単独でも、
幾つかの廃道を撮影しました。
結局時間や構成の都合上、
今回のDVDには全て収録してませんが、
これからアップする廃道も、
機会があったらDVDに収録したいと思います。

小滝の橋跡

以前アップした足尾銅山のリポート、
その小滝地区の記事で触れた小滝橋のすぐ近くに、
廃道と呼ぶにはあまりにも短い廃道がありました。
その記事内で触れている小滝橋と弾薬庫跡は、
道に沿って流れる庚申川を挟んで位置しますが、
かつては現道から橋が架かって、
弾薬庫跡へ通じていたようです。
現道と廃道の分岐点からは、
草の茂みでその距離がわかりませんが、





小滝の橋跡

植物をかきわけると、
ほんの10m足らずで橋台です。
形を留めるガードレールや橋台のしっかりした造りから、
それほど古さは感じません。





小滝の橋跡

橋台から対岸を見ると、
庚申川を挟んで橋台がみえます。
その奥の岩肌が、以前の記事で触れた、
弾薬庫跡や削岩機の試掘跡が残る場所です。

足尾を訪れたのは、
廃道撮影をまだ殆ど行なっていない頃だったので、
たったこれだけの廃道ですが、
それまで気にもとめなかった道端に残る廃道に、
楽しさを感じていたのを思い出します。





小滝の廃道

上記の以前の記事の真ん中あたりにアップした、
かつての鉱夫浴場跡の画像の左上に、
僅かながら道らしきものが写っていますが、
これも廃道でした。
わずか50m足らずの廃道は、
画像左側に写る石垣の上にあった、
かつての鉱員社宅のための道だったのだと思いますが、
落石注意の標識は、石垣の脆さを示しているのでしょうか。





旧古足尾橋

小滝の中心エリアから少し南下したところにある、
古足尾(こあしお)橋からは旧古足尾橋が見えます。
昭和の初期に造られたRC造のアーチ橋で、
薄桃色に見えるのは着色コンクリートか、
それとも光の加減かはわかりませんが、
深い谷を造る庚申川の緑にとても映えます。





旧古足尾橋

橋の袂に進入禁止の看板等がないところをみると、
これは廃橋ではなく古い現役橋かもしれませんが、
車は既に進入出来なくなっています。





旧古足尾橋

欄干に残る鉄製の装飾が、
20年代を彷彿とさせるデザインです。

小滝地区にはこれら以外にも、
小さな廃道を散見しますが、
かつて鉱山で賑わった街だけに、
沢山の道が造られ、
そして造り替えられていたのだと思います。



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆



廃道:足尾トンネル旧道、他

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

前回に引き続き、DVDには収録しなかった、
足尾近辺の廃道をいくつか。

足尾トンネル

かつての鉱山町から国道122号で少し南下すると、
足尾トンネルがあります。





足尾トンネル旧道

画像は南側トンネル口付近の様子。
奇麗な化粧石で装飾され、
写真ではちょっと影で見えませんが、
左上には足尾をイメージしたレリーフもある、
現代的なトンネルの右横に、
かつて山肌に沿って通っていた廃道があります。
その奇麗さから、ともすると廃道ではなく、
ハイキングコース等かとも見間違いますが、
奥へ進んでみると、





足尾トンネル旧道

なんと廃道が若木の植樹林と化しています。
足尾と言えば、かつて銅山のばい煙で、
自然が失われた事でも知られる土地。
そういった場所への植樹のためなのかはわかりませんが、
廃道がこういった再利用のされ方もあるんだと思いました。





沢入トンネル旧道

足尾トンネルをちょっと南下すると、
ほどなく沢入(そおり)トンネルがあり、足尾トンネル同様
山に沿ってかつての廃道が残っています。

こちらは植樹されていないかわりに、
道の至る所に自然木が育っています。
ガードレールがなく、路肩石だけの造りを見ると、
足尾トンネル横の廃道よりずっと以前に、
廃道になった(つまりトンネルが造られた)のかと思います。





沢入トンネル旧道

やがて歩く事15分位、
もっとも大きな崖崩れで、
道は遮断されていました。
それほど急峻でもなく高さもないので、
登って向こう側をみてみましたが、
また再び何事もなかったように廃道が続くばかりでした。

この廃道は殆どの区間、崖側にネットがかけられ、
しかもその多くの箇所で、
崩れた岩石がネットの中に溜まっている光景を目にしました。
おそらくかなり脆い岩質なのだと思います。



さて、廃道の撮影になんで足尾へ来たかというと、
もともとは平沼さんから聞いていた、
廃村の中の廃道もアイテムとして押さえておきたい
と思った事がきっかけでした。
足尾銅山の本山地区と呼ばれる、
足尾では一番北の奥まったエリアに残る、
深沢社宅の廃道を目指して行ったわけですが、

足尾銅山・深沢社宅跡

行って見るとご覧のように、
既に廃村は解体後でした(T.T)
平沼さんが訪れた時は、
この道の両側に木造の廃屋がズラッとならび、
栄枯盛衰を身を以て表している様な場所、
ということだったのですが、
どうやら2年くらい前に解体され、
現在では足尾トンネル旧道にあった植樹を行なっている、
足尾植樹会の看板が立っている所をみると、
この土地も、いずれ若木の植樹に再利用されるようです。





足尾銅山・深沢社宅跡

いまはただ自由に育つ雑草の中に、
かつての屋外の協同水場の遺構や、

足尾銅山・深沢社宅跡

秋風に穂をゆらす、すすきの中に、
公園の遊具が寂しく残るばかり。
これはこれで時代の変化を感じられる光景でしたが、
映像的には説明しなくてはならない部分が多くなりすぎるので、
今回収録するのはやめました。



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


廃道:竹の上橋

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オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

最後は、やはりDVDには収録しなかった、
奥日光の川治温泉にほど近いところにある
竹の上橋です。

wikiによると、奥日光の川治温泉郷は、
江戸時代に川の氾濫後偶然に発見され、
宿場町兼湯治場として多いに賑わったそうですが、
車で温泉街を通過する限り、
今では十軒足らずが営業をしているばかりで、
かつての賑わいは面影すら感じられません。
しかし、温泉はあまり行きませんが、
観光客で賑わう温泉街より、
こういったひなびた温泉街のほうが、
情緒があるのは確かです。

竹の上橋

温泉街を西に抜けて暫く走ると、
目指す竹の上橋は、道脇に突然姿を現します。
あいかわらずウェブ地図には表記されていませんが、
地図をクリックしてGoogleMapを表示し航空写真に切り替えると、
ほぼ中央付近に橋らしき形のものが見えますが、
(2013年3月7日現在)
これが竹の上橋です。





竹の上橋

地図の県道23号と白い道が合流する反対側付近に、
巨大な橋の主塔が残っています。
竹の上橋は、巨大な主塔を両側に持つ吊り橋ですが、
一般的な吊り橋の主塔が橋の上にあるのに対して、
この竹の上橋は、主塔が両岸の土地上にあり、
吊り橋のワイヤーがかなり手前の土地まで張り出しています。





竹の上橋

高さは目算で6m位でしょうか。
素朴ながらバランスがよく、
気の効いたデザインの主塔です。





竹の上橋

更に主塔の近くまで行って様子を見てみると、
釣り具はワイヤーなのに、床が木製なため、
ほぼ壊滅崩落状態です。
しかもかろうじて残る木部は中央付近に集中し、
渡り口付近の床は完全に落下してしまっています。
この樹木に囲まれた中に幻想的に浮かぶ、
空中崩壊吊り橋の状態が、
竹の上橋の魅力かもしれません。

遠くに、樹木に埋もれる対岸の主塔が見えるので、
対岸へも行って見る事にしました。





竹の上橋

県道23号をさらに西に走ると、
やがて小さな橋を渡りますが、
橋を越えて最初に左折する山道を入り暫く行くと、
対岸の主塔へ通じる道があります。
この道はGoogleMapでは表示されませんが、
Mapionだと表示されます→Mapion 竹の上橋付近

こちら側は対岸と違って短い廃道の先に主塔があるので、
一層幻想的な印象をうけます。





竹の上橋

形は対岸と同じですが、
柱の麓をみると、なんと!竣工年が皇紀です!

紀元二千六百年十二月竣功

紀元2600年とは、神武天皇から時代を数えた数え方。
そして2600年とは昭和15年(1940)年のことで、
まさに第二次世界大戦が始まる前夜の年号です。
この年、皇紀2600年を祝して、
国内では2600年祭がいろいろと繰り広げられたそうですが、
それはまさに、
太平洋戦争への戦意高揚の行事でもあったと思います。

→ You Tube 『奉祝国民歌 皇紀二千六百年』

この橋が軍事目的や皇紀2600年と、
直接関係があるのかないのかはわかりませんが、
今とは全く違う時代の記憶を、
今に伝える橋だと思います。





竹の上橋

竹の上橋の撮影をひとしきり終えて、
村道へ戻ってみると、
来た方向と反対側の方向の道に、
なにやら惹かれるものを感じて行ってみました。
すると画像中央のガードレールから、





竹の上橋

なんと廃橋が見えるではないですか。
石積みの真ん中だけコンクリートで補強し、
鉄板らしきものを載せただけの小さな廃橋。






竹の上橋

橋の袂に行って見ると、
両側の鉄枠がなければ、ほぼ土地と化してしまった、
さながらインディアナ・ジョーンズ〜最後の聖戦〜の、
ラスト間際に登場する<見えない橋>状態です。



竹の上橋

更に橋の先は廃道でしょうか。
造りはしっかりしているものの、
車の轍が無く、秋の枯れ葉が積もった道は、
ただ渡る風の音だけが聴こえる、
静寂の世界でした。



船場亭

ロケ終了後、せっかく日光にきたのだからと、
オープロのグルメ大将、大西さんお薦めの船場亭へ。

食べログとかを見ると、
昼間は日差しが差し込んで明るい店内のようですが、
夜はかなり照明を落としていて、
古民家へやって来た様な感じを味わえます。

船場亭

注文した岩魚、里芋、焼き鳥の炉端焼き。
岩魚はぷりぷり、里芋はほっくりで、
焼き鳥はご覧のように、
ありえないデカさながらジューシー。

もしこの付近へ行かれる事があったら、
是非立ち寄ることをお薦めします。

シリーズでお送りして来た廃道リポは、
これでひとまずおしまいです。
もしDVDの続編を作ることになったら、
その時は、改めてアップ出来ればと思います。



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


『廃道ナイト 番外!! 現道も廃道もDVDも本もね!』開催

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シリーズでお送りして来た廃道リポート。
最後はイベントの情報です。

来る2013年3月23日(土)に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で、
『廃道ナイト番外!!現道も廃道もDVDも本もね!』
が開催されます。

廃道ナイト番外

DVDでずっとご指南頂いた平沼さんの、
現役の道をまとめた新著、
日本の道路120万キロ』(2013.3.14発売)と、
DVD『廃道クエスト』のリリースを記念して、
コラボレーションの形でのイベントです。

主催は『日本の道路120万キロ』の実業之日本社さんなので、
基本的には平沼さんメインのイベントになると思いますが、
オープロジェクトでは、DVDの没映像や、
撮影秘話&苦労話など出来ればと思います。

お時間のある方は、是非お越し下さいませ!!!



廃道クエスト




◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


『廃道ナイト 番外!! 現道も廃道もDVDも本もね!』開催

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シリーズでお送りして来た廃道リポート。
最後はイベントの情報です。

来る2013年3月23日(土)に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で、
『廃道ナイト番外!!現道も廃道もDVDも本もね!』
が開催されます。

廃道ナイト番外

DVDでずっとご指南頂いた平沼さんの、
現役の道をまとめた新著、
日本の道路120万キロ』(2013.3.14発売)と、
DVD『廃道クエスト』のリリースを記念して、
コラボレーションの形でのイベントです。

主催は『日本の道路120万キロ』の実業之日本社さんなので、
基本的には平沼さんメインのイベントになると思いますが、
オープロジェクトでは、DVDの没映像や、
撮影秘話&苦労話など出来ればと思います。

お時間のある方は、是非お越し下さいませ!!!



廃道クエスト





◆廃道サイトの決定板『山さ行がねが』◆


iOSアプリ版『軍艦島全景』リリース

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2008年に発売以来、
おかげさまで好評をいただき、
4刷りで大幅な修正を加え、現在6刷りを数える
『軍艦島全景』(三才ブックス)が、
iPad専用のiOSアプリとしてリリースされました。

iOSアプリ『軍艦島全景』

基本的には書籍『軍艦島全景』を踏襲しながらも、
画像の半数近い約2/5を、
それ以降撮影した新撮ショットに入れ替え、
また、テキスト要素も4刷りの修正版から、
さらに修正を加えた、いわばより完成に近づいたものです。





iOSアプリ『軍艦島全景』

さすがに書籍全部を1アプリに納めるのは、
容量的にも無理があったので、
あえて3タイトルに分けてあります。
vol.01住宅棟編は、
住宅棟エリアと昭和のタイムカプセル。
画像の65号棟中庭の光景も、超広角レンズによって、
書籍版より広範囲の65号棟が写り込み、
その全体像がわかるようになったと思います。





iOSアプリ『軍艦島全景』

よくこの書籍を、
写真集として捉えている方のレビュー等を見かけますが、
この書籍は、基本的に写真集としては作っておりません。
画像はあくまでも解説の補足として、
ビジュアル的に見られる様に添付したものです。
今回も、開発会社のハンズエイド様からは、
写真を前面に出したアプリに、
というお話でしたが、
画像はあくまでも添え物なので、
最初から解説が読める造りにしてあります。





iOSアプリ『軍艦島全景』

vol. 02名所編は、地獄段やドルフィン桟橋等、
島内の名所と言われる場所に加えて、
中ノ島と軍艦島を見られる絶景ポイントを収録。
中ノ島の竪坑の穴の跡や新撮ビューポイント画像等、
ここでも書籍とは違ったショットに変更しています。





iOSアプリ『軍艦島全景』

なお、VOL. 01は350円ですが、
Vol. 02とVol. 03は各85円と、
お求め易い価格設定となっております。





iOSアプリ『軍艦島全景』

vol.03鉱業所編は、
書籍では一番手薄だったコーナーですが、
アプリでは物件数はそれほど変わらないものの、
1画像全画面表示なので、
書籍よりはボリューム感が感じられると思います。





iOSアプリ『軍艦島全景』

書籍『軍艦島全景』をお持ちの方は、
ポータブルで持ち歩き様に、
また、書籍をまだお求めでない方は、
合計で520円と、書籍より遥かにお求め易い価格ですので、
この機会に、是非ご覧下さい。



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軍艦島全景



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